大好きなふたつの言葉のあいだで
ひとつは、ヨコタさんのFCコラム
もうひとつは、小林賢太郎のnote
大好きなふたつの言葉のあいだを行ったり来たり
居心地がよくて、つい長居してしまう
幸か不幸か、どちらも有料会員でなければ読むことができない。だから極力、具体的な内容に触れることを控え、思うことがあれば会員枠の中に収まるようにしてきた。けれども、そう易々とまとまるもんでもなく本当に伝えたいことほど書けない。そうでなくても暴走するわ、本心全部を大好きな人にぶちまけるなんてできっこないし、甚だ迷惑でしかないわな。そういう類の気持ちをnoteに吐き出しているが、具体的な内容を控えながら書こうとすると、まあこれが難しいったらない。
でも、言いたいことはあるんです。
■2023.8.19 第55回 コラムのこと
このコラムで印象深かった部分と、2024年上半期しいたけ占いの一部が一致するという、え、もしかしてヨコタさんはしいたけさんなのか?疑惑が勃発した。私の中でだけ。
何回目だったかのコラムにコメントした「あれ?これってヨコタさんも書いてなかったっけ?」とは、このことで。
どんな占いも真っ向信じるほど素直ではないし、そもそも人の言うことは聞かないし、都合のいいとこだけ拾うタイプではあるけれど、これに関しては驚きでしかなかった。こんな偶然、これについて考えろと言われてるようなもんじゃん?また都合よく解釈した。
ヨコタさんはSNSに対する「考えること」の大切さを語ってくれた。自分は「考える」というより、瞬発力に欠け、モタモタしてる間に時間が経ってしまい、結果として考えざるを得ないだけ。妥当な言葉を探し、足りない知識を補うように調べ、それでもうまくいかなければ諦める。だから、ヨコタさんのいう「考えること」とは少し違うのかもしれない。
仮に大好きな人の言葉だとしても、一旦距離を置くのは、まず自分がどう感じたか、何を思ったかを、より正確に抽出するため。外気を閉ざして、引きこもる。結果として偏るのも想定内。その影響力は絶大だもん、尚さら距離が必要だ。
ここまで言い当てられたらぐう根のも出ない。まさに私の気持ち、そのまんまだった。
だからヨコタさんに惹かれるんかな。というより、私もこうありたい。自分からしか見えない景色とか思いが大切で。同じ時間を費やすなら、それらを満喫するために使いたい。
前にヨコタさんが言ってたこれも、すごくパンチがあった。他の誰かに対してではなく、その傲慢さの矛先をご自分に向けるやさしさは、痛恨の一撃。
一見「善」に思える気遣いが、私には「偽善」に感じることの方が多かった。本質って、どんなに巧みな言葉で隠しても、見えちゃうときがある。その違和感がいたたまれず、逃げだしたりもした。
総じて自分は、ここままで良いのかも知れない。
自分を信じる、という意味での「自信」の出番かな。
■『才能』とか『天才』とか
「こんにちは!才能です!」と挨拶されるピアニストの清塚信也さんは好き。
どうも苦手な単語の上位に入る、この手の言葉。他を賞賛する時に使われる場合のこの表現に、なぜ抵抗があるのか、しばらく考えている時期があった。
そういえば、「お前はなんでもできるから」と言われて、すごく嫌だったな。なんでもできないよ。できないから、どうにかなるよう考えて動くしかないんだ。結果としてできた、もしくは、できたように見えたとしても、その経緯なんてわざわざ言うもんでもない。黙ってもがいてたとしても飄々としていたいじゃん。
子ども達に関しても、「それは才能があるからだよ」だなんて、何も知らん人に言われてもな。その才能に甘えることなく、やりたいことを貫き、そのために努力を積み重ねた結果でしかないのだから。たまにしか見せない苦しそうな横顔も、親なんて付かず離れず見守るしかなく、何の役にも立たない。
せっかくの貴重な褒め言葉を、被害妄想扱いするのは良くないが、この手の単語を簡単に使えない理由ではある。だったら私は、それに代わる表現を探す。
私にとっての小林賢太郎は『天才』そのものでしかないのだが、当の本人のこの言葉で、
私にとっての小林賢太郎は『努力』そのものになった。ますます、これらの単語を使う機会を失った。
■『感受性』の話
とある事柄に、どこか腑に落ちない気持ちが続いた。
ずっと感じていた違和感は、きっと根底にこの言葉があるからなんだろう。私が本当にかっこいいと思う人は、己があり、配慮があり、謙虚であり、相手を思いやり、才能に甘えることなく、努力を惜しまない。
私にとっての「なくてはならないもの」には、なんとしても気がつきたいものだ。いつその時がきてもいいように感受性を整え、きちんと受け取れる態勢を備えたい。というのも、
逆の立場から言えることは、ある程度、安定した心構えがないと、受け止め切れないこともある。まずは自分の脚で立ってから。おんぶにだっこも、なあなあもなんか違う。どちらか片方が重たければ、バランスは崩れる。何事もそういうものだと私は思う。
その奇跡に釣り合うよう、感じたままの気持ちに正直でありたい。そう思った矢先の出来事だった。
質より量が重んじられる風潮に、根本的な部分が軽視され、本質が崩れていくような気がしていた。
「届くべき人には届く」
つまりは
「知ってください」と主張しなくとも、「知りたい」と思ってアンテナを張っている人には届く
これを目の当たりにできたことで、確信に変わった。やっぱり私に必要なのは、この感覚だ。
昨年末最後のnoteをこの言葉で締めた小林賢太郎
今年最初の西宮に飾ってあったヨコタさんの言葉
(この記事のヘッダー画像)
こういう偶然なら、いくらあってもいいな
ま、いっか
あ、そっか
今の自分を統べてるのは、このふたつの言葉
固定概念にがんじがらめになりすぎず(ま、いっか)
大切なことにはできるだけ気づきたい(あ、そっか)
大好きなふたつの言葉のあいだを行ったり来たり
居心地がよくて、つい長居してたら
こんなことに気づいた
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