娘氏、生後2か月で鼠径ヘルニアの手術をする①
育児中だからか、それとも三十を超えたからなのか、最近の私は5G通信も驚く速さで物事を忘れていく。
それでも、1年以上前の娘氏の手術のことはいまだに、それはもうはっきりと思い出せる。
あれは娘氏が生後1か月のころ。
おむつ替えをしていたら、足の付け根が変に盛り上がっている。
触ってみた。固い。
全身ぷにゃぷにゃなのに、そこだけスーパーボールが入っているような固さである。あれよ、ゴム製のよく飛ぶボールね。たまに目とか描いてあるやつ。
もしかして、触ると痛い…?
娘氏の顔をおそるおそる見た。
(・・)?
ぜんっぜん大丈夫そうである。
私の頭には、直感で「そけいへるにあ」の病名が浮かんでいた。
なぜならば、私自身も生後2か月ごろに鼠経ヘルニアの手術を受けたからである。
もちろん、当時の記憶は全くない。
でも、小さい時から病院に行くたびに、母が問診票の「手術歴」に「そけいヘルニア」と書くのを見てきた。
それに加えて、「病院の先生に、手術したことありますかって聞かれたら、『赤ちゃんの時にそけいヘルニアの手術をしました』って言いなさい」と口を酸っぱくして教えられてきた。鼠経ヘルニアの英才教育である。
英才教育を受けたわりには、どんな症状なのかさっぱり分かってなかったのだが、足の付け根のところの隙間から、腸とかがぴょこんと飛び出してしまうことらしい。詳しくはググってください。
娘氏を連れて、1か月検診を受けた小児科へ向かった。
女医さんは、スーパーボールを見ると「うーん」と言って、眉間にしわを寄せた。
「もしかして、何か悪い腫瘍とかなんでしょうか」
「……いえ、鼠経ヘルニアで間違いないと思います。ただ、ちょっと私も専門ではないもので」
そう言うと、女医さんはおもむろに分厚い専門書のページをめくった。
小児科=子どもの病気はオールオッケーの駆け込み寺だと思い込んでいたが、厳密には小児内科・小児外科という区分があるらしいことを、私はここで初めて知った。このお医者さんは内科の方だったようだ。
「鼠経ヘルニアは自然に治る場合もあるので、しばらく様子を見てもいいと思います。1歳くらいまで治らなかったら手術、とするお子さんも多いので。
でも、ご心配でしょうし、お近くの小児外科の紹介状を書きましょうか」
一瞬迷った。
生後1か月の赤子と病院に行くのは、ちょっと、いや、なかなか大変である。
持ち物は、
おむつ4~5枚、おしりふき、汚れたおむつを入れる袋、吐乳した時のための着替え、粉ミルク、哺乳瓶、お湯が必要。
あと、財布と保険証とスマホと鍵。
うああ、母子手帳!?母子手帳ケース大きすぎてもうリュックには入らないんですが。。無理やり押し込んだ母子手帳ケースはリュックの中でたわんでいる。
授乳は診察の1時間前まで。てことはその更に1.5時間前にも授乳したいから、家出る30分前に授乳して、げっぷを出させるのが10分で、あーでも吐いちゃうかもしれないから着替えの時間も考慮するともうちょっと早い方がいいか…
めんどくせえ。
娘氏、こんなこと言ってごめん。しかし産後1か月の回復しきってない体でこれをやるのは結構しんどいのである。
数ヶ月も経てば授乳間隔も伸びて、少し楽になると聞いていた。
今あわてて病院行く必要もないかな~とも思ったが、心配し続けるのもいやなので、小児外科がある総合病院へ行ってみることに。
きっと「様子見しましょう」って言われるだけだろうけど、まあそれでもいいよね。安心するために必要なコストであろう。
そんなことを考えながらお会計をしていると、「アサヒナさん!」という声が聞こえる。ふと見ると先ほどの女医さんが駆け寄ってきた。
「改めてヘルニアについて調べました。
総合病院にかかるまでの間、ヘルニアが出ている時は、お母さんが手で優しく押して戻してあげてください。
しゅるしゅるっと、出ているところが中に入っていく感覚があるはずです」
後述するが、このアドバイスは娘氏についてはちょこっと間違っていたことがのちに判明する。
それでも私はこの女医さん、本当に素晴らしいと思うのだ。
紹介状を書くという彼女の責務は終わっている。患者は数日以内には専門医に診てもらうことが確実だ。
そんな中で、わざわざ診察が終わった患者に走り寄ってアドバイスをするメリットは、彼女にはあまりない。それでもその場での患者にとっての最善を考えて、労力を惜しまない姿勢にプロフェッショナリズムを感じた。
数日後、紹介状をもって総合病院へ。
「うん、鼠経ヘルニアですね。なるべく早く、手術の日程を組みましょう」
「ふぉっ」
絵本の世界のおじいさんみたいな声が出た。展開が予想外すぎた。
「前の病院では、自然に治るかもしれないから、しばらく様子見でいいと言われてたんですけど、、、」
「そういうケースもあるのは事実ですが、お子さんの場合は早めに対処したほうが良いでしょう。
なるべく早く手術したいですが、身体が小さいので、生後2ヶ月になるまで待ちましょう」
このとき、娘氏の体重は3,500gくらい。
生まれたときの体重が2,500gに満たない「低出生体重児」だったので、順調に成長はしているものの、ちょっとちっちゃめではあった。
「……少しでも大きくなってから手術したいんですが、例えば生後3か月になるまで待てないでしょうか……」
私の言葉を聞いた女医さんは、しっかりと私の目を見据えた。ここで初めて気づいたけど、大きくてきれいな目をした女医さんだった。
「生後2か月でも3か月でも、手術をすることのリスクは変わりません。
一方で、嵌頓(かんとん)のリスクはどんどん上がります。飛び出した臓器が隙間にはまったまま、戻らなくなることです。
血の巡りが悪くなり、最悪の場合だと壊死してしまうこともあるので、手術を早くした方がお子さんのためです」
お子さんが小さいから心配でしょう、不安ですよね、みたいな、こちらの気持ちを表す直接的な言葉はあまりなかったように記憶している。
それでも、端的な言葉と表情、口調や声の穏やかさから、彼女がこちらの気持ちを理解してくれていることがはっきりと伝わってきた。
「ヘルニアの部分が出ていたら、押して戻せばいいんでしょうか…?」
「押さないでください。押していいのは脱腸のケース。お子さんは腸ではなく卵巣が飛び出ているので、押しても簡単には戻りません。そのままにしておいて」
やっぱり。
前の女医さんに言われたように娘氏のヘルニアを押しても、全く戻らなかったのだ。いかんせんスーパーボールである。腸じゃなくて卵巣だったのね。
「あと、お母さん」
なんですか。私のこんがらがった頭は限界に近いのですが。
「飛び出ているところが赤く腫れたり、お子さんがいつもと違う泣き方をしたりしたら、嵌頓(かんとん)している可能性があります。
すぐに病院に来てください」
いつもと違う泣き方とは……????
当時の娘氏は、お腹すいた、暑い、眠い、全てのコミュニケーションを泣いてする生き物だった。
血の繋がった娘であるとはいえ、まだ出会って1か月ほど。そんな中で、泣き方だけで異常事態を察するのは私にとって激ムズであった。
例えるなら、付き合って1ヶ月の恋人が「はぁ〜」とため息をついただけで、仕事で悩んでるのか、疲れたのか、眠いのか、はたまた暇なだけなのか、を判断するくらい難しい。
そんなん無理だよね?みんなできるの??そういうことできないから私は全然モテなかったのだろうか…?
「私、いつもと違うことを感知できる自信がないんですが、どうしたらいいでしょうか」
「必ずわかります。いつもと全然違う泣き方をするはず。迷ったら病院に来てください」
見たこともないような激しい泣き方をする娘を想像して、それはそれでぞっとした。そんなのみたくないよお。
診察から1か月後に手術となった。手術の2週間前に検査の予約を入れて、とぼとぼと家に帰った。
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