とある救世主の空白

 強い海風が吹き付ける。周囲に遮るものは少なく、眼下には海原が広がっている。
 海中は不自然なほど蒼々として、ずっと昔からさもそうであったと、それを知り様がない人々にはそう映っただろう。

 しかしその感慨も、奥にそびえる東京タワーを見れば乾いた笑いに変わる。全長333m、東京で一番高い建造物のおよそ三分の一が海中に沈んでいる。

「ここにいたのね、探したわ」
「……今日はオフだから、な」
 不意に声をかけられたが、振り向かずにそう答えた。見知った声の彼女だったからだ。
「あっちもこっちも大騒ぎで、大変だったものね……それで、ここで何していたの?」

 その返事を口から出そうとして、つい言葉に詰まってしまった。特に明確な目的意識は無く、強いて言うならば……。
「実感を、得ていたところかな」
「実感?」
「ん」

 ガイア教とメシア教、その両者の戦争は多くの犠牲を払い終結した。
 その戦争に与したものとして、残ったモノに対して、失ったモノに対して、改めて向き合わなければならないと、どこかで思っていたに違いない。

「それで……今の東京を見てたのね」
「……」

 東京は、皆底へ沈んだ。そのほとんどは洪水に呑まれ、いくつかの高い建造物しか水上に見えない。
 ICBMの余波があろうと、そこにはまだ多くの人間がいた筈だったが、彼らが全員カテドラルへ来ているわけではない。

「あの神が起こした洪水なら……いつか水も引くだろう。きっとその後の方が騒がしくなりそうだ」
「うん……」

 洪水神話は、今の世界をリセットするために引き起こされる。これもきっとそういう事で、カテドラルは言わば箱舟。乗った人間にしか生存の選択は提示されていない。

 だからこそ、洪水が引いた後に残るものが、ある意味で残したものなのだ。自分がその選択に大きく関わる事ができたからこそ、この下にはそれが眠っている。

「ねえ」

 そして、彼女はこう問いかけてきた。

「これで、良かったのかな」


とある救世主の独白/L

「良かった……とは言い難いな。少なくとも、悔いはある。
 けれど、全てが救えないのは事実だ。この世界は、あまりにも人間が生き難い。
 そう考えると……良かった、んじゃないかな」

 善行を積み重ねてきた気でいた。人助けをしてきた気でいた。悪魔よりも、人間と共に生きる気でいた。
 この旅路は、その為に成してきたつもりだった。

 しかし、多くを助けるには一人の人間はあまりに無力だった。

 アレが全てを救う訳ではないと知っていたが、限りなく人間を救うものでもあるとも思っていた。……その結果が、このカテドラルと洪水だ。

「これは独り言だけど」
 と、廃都市の海に向かって所感を述べる。

「多くの人間は強くなり得ない。だから拠り所が必要で、今の世界はそれが極端だった。
 例え多くの取捨選択をしようとも、残るものが多いのは確かなんだ。……アレは、事実多くの人間を救うだろう。
 でも、それが犠牲を許容していい理由じゃない。……この底に沈んだ多くの街々を復興したことが、無意味になったのを忘れたくはない。
 だから救世主の代わりをやってやる。少なくとも、今を生きる人間たちにとっての居場所ができるまでは」
 ガイアの勢力を退けた今もなお、立場としての人間は強くない。元ガイア教徒はともかく、メシア教徒も。
 別に敬虔な信徒ではないから、なんて理由で今の人間の取捨選択をする気は無く、なんならすでにされた後の彼らを虐げるつもりもない。

「優しいね、やっぱり」

 そう言う彼女の声色も相応に優しかった。振り向かずともわかるその言説は、自身が足元から救世主しぐさに慣れてしまったのだろうかと、そんな考えがよぎる。

「でも、それまでだ。救世主のままアレの為に死ぬ気なんてないし、やり口も気に食わないからな」

 通常なら、聞かせられない言葉。気の短い天使共には当然、いつどこでも誰かに告げ口されてしまうか。いや、仮にも救世主にそうまでするかと考えると、笑いたくなるぐらい微妙な立場になっている。
 まあ、気に食わないものは気に食わないからそれも笑って見過ごしてほしいが、随分と笑えない冗談なのだろう。

 連中の不信感については、ヨシオの件だってそうだった。あれは本人ではない。生き返った際に忠誠を誓ったのかと思えばそれでもないだろう。
 ヨシオの死体、それを確認すると頭には手術痕があった。生前のものじゃないだろう。少なくとも、本人からその話を聞いたことは無かった。
 恐らく改造人間さながら、死体を再利用しただけの人形。
 頭を捌いて、アレらの技術で脳を弄り、生きているように見せかけただけだ。

 およそ非人道な行為をしてまで都合の良い傀儡を作り出したことで、長い間苦楽を共にしたその想いを踏みにじられたことを、そして友人の魂を利用されたことを笑って流せるほど、お人好しの救世主になったつもりはなかった。

「それって……」
「独り言だよ、ただの」

 ただし、それ以上でもそれ以下でもない。反旗を翻すわけでも、従僕になるわけでもない。
 上がった幕が下りた以上これはただの旅の終わりで、少しのあと片付けが残っているだけだ。

「でも、その後はどうするの?」
「その後? そうだな……」

 考えたことは無かったが、そうだな……。

「適当な人間のコミュニティで、余生を過ごすよ。その為のあと片付けだ」

 人間を救い、居場所を作り、人間として生きられる予後を残す。
 そう、未来の事を考えられるだけ、少しは良かったのかもしれない。
 後悔こそあるが、自身にとって最善の選択には違いないだろう。

「それ、私も一緒だよね?」
「……ああ」

 笑って彼女は隣に寄り添い、最後までこの地平を眺めていた。


とある救世主の自白/C

「良くはないだろ。ああ、良くないね、こんな結末は。
 でも、こうするしかなかった。大勢の為に、守るべき少数を手放すなんて最悪だ。だから、後悔はしてない」

 とっくのとうに、ルールが無用であることに気づいた。
 無法の世界で、法を敷くことの空虚さを実感した。
 ここまでの道程は、世界ではなく、己と、その周りにあるものを救うためのものであった。

 その為に、独善的なまでの自我を通して空虚な法をぶち壊すと判断したのは、一体いつの事だったのだろうか。
 結果として、多くの人間は救われないだろう。多くの悪魔が狂気に満ちるだろう。……戦争は終わり、また戦争が始まるのだ。

 いつの間にか、彼女は隣に腰を下ろしていた。こちらを覗く瞳に、疑念や不安は無かった。なればこの煤けるような想いの黒さは、己の内から這い上がってくるモノだろうか。

「……本当に、後悔してないの?」

 ――――この疑問は、彼女のものではない。紛れもなく、自分のものだった。

 ふと、最初の熱を思い出す。忘れがたい、復讐の火を宿したあの日。母が死んだときの記憶。
 あの時の感情を薪にくべ、ここまでやってきたのだ。悪魔を含む超常に破壊される苦しみを知っているが故に、もう二度と繰り返したくない。
 それがどうだろうか。もはや既に――――。

「後悔は、あるさ。だがそれは今の話じゃない。もっとずっと前に、ガイアの連中と手を組むと決める前に置いてきた。殺した悪魔と手を組むのはそういうことだ。
 自分のやってきたことが、大勢にとって咎められる事なのは承知している。人間を守るためじゃなく、自分を守るため。そう力を振るってきたことが自分の罪だ。……あの日の自分と同じように、大切な人を悪魔に殺される世界の苦しみを知った上で、世界に手を貸さなかったことが。
 そうでもしない限り、この世界には失われていくものが多すぎる。自分の手ではどうしようもないぐらいに、理不尽が多い。……そうやって、ヨシオも、ワルオだって……殺して、死んでいったんだ。
 ただ、自分と、その周りだけで良かったのに……。

「……優しいんだね?」

 その言葉に軽く笑い、ふるふると首を振るう。

「優しいとかじゃなくても、後悔はしちゃいけないんだよ。こうすると決めた時からこうなるとわかっていたんだから。これで良くないと知った上で、だからこそ後悔はしない。してやらない。それは死んでいった者達への侮辱だから」

 そうして、おもむろに立ち上がる。

「ようし、踏ん切りがついた。騒がしくなる前に、一緒にここからさっさとおさらばしよう」
「そうね、でもいいの? 放っておいたら危なそうじゃない?」
「いいのさ、どうせなるようにしかならないし……俺たちはエゴを通せるだけの力がある。好きなように生きるさ」

 

とある救世主の告白/N

「良かった、良くなかった。うーん……」
 結果として、この身は多くの争いを生じてきた。人の身でありながら、メシア教ガイア教どちらにも与せずに、その両方を諫めた。
「これは、良し悪しの問題じゃないな。ああいや、世界の話じゃなく、俺の話なら、これで良かったんだけど」

 振り向きながらそう答えると、彼女は良くわからない、という顔をした。
 当然か、これはもっと個人的な話で、この感覚はきっと自分だけのものだろう。

「ガイア教にも、メシア教にも剣を向けた時に、思い出すことがあったんだよ。あの太上老君が言っていた事」

 ――――光と闇、法と混沌。世界のバランスが崩れようとしておる。
 いずれに傾こうと結果は同じじゃ。お前ならどうする?

「それも今なら理解できる。こうして両勢力をぶち壊したが……きっと、どうしたってこの結果は変わらない。メシア教に従い世界の法を維持しようが、ガイア教に従い混沌の世界に戻そうが、きっとどうしたってカテドラルは建ち、世界は洪水に呑まれ、戦争は過熱する。運命……なんて安い言葉だけど、そうなるようにできていた。
 だから正直に言って、良し悪しじゃなくどっちでも良かったんだよ。何にせよ世界は滅びるんだからね」

 その言葉を聞いた彼女は僅かに逡巡するが、思い当たる節があるような顔つきをしていた。
 共に同じ道を進んでいただけ、彼女もそうなのだろう。

「……うん、そう言われると、確かに。私たちがそうしてなくても一緒になるのかもしれない。
 でもそれなら、どうして貴方自身は良かったって言えるの?」

 それは原初の問いかけ、星を目指す最初の行動原理。
 最も単純にして、何よりも代えがたいもの。

「そうしたいと思ったからだよ」

 それは、ただそれだけの理由だった。

 もはやこの世界には善悪は存在しなく、それを咎める為の法はない。或いは、その法自体を壊してしまった。
 そうした世界で、力を持ってその方針を定めるのは、己自身の純粋な、個人的な好悪に基づく『どうしたいか』に他ならなかった。

 それは世界を救いたいとか滅ぼしたいとか、世界の行く末を定めるそれらのコトワリではない。 
 既に結末が決まっている世界では『そうしたいと思った』から、そうするまでだ。
 滅ぶ世界、滅んだ世界のその後で、この身はその過程を選ぶ権利があった。そういう運命の星の下に存在していたのだ。

「――――だから、これで良かったんだ。いや、どれを選んでも良かったって言うのが一番正しいんだけどね」
「あの神様たちに協力しても、しなくても、変わらないんだものね」
「……ああ」

 そしてつまりそれは、きっと。等しく彼らは、自分の友人は、ヨシオとワルオは、命を落とすという事なのだろうか。
 それを確認するすべはない。選択に後悔もない。
 けれど、この哀しみだけは逃れられないとすると、酷く歪な運命だ。
 それがもうずっと昔の、最初の夢を見た時から。自分の名を名乗り、彼らの名前を呼んだその時から定められていたというのならば。

「でも、私、貴方が神様たちをぶっ飛ばしちゃったとこは好きよ? 例えそうしなくて良くってもね」
 彼女が、年齢さながら無邪気に笑う。そう笑えるほど何もかもを片付けたと気づき、こっちもなんだか気分が良くなる。喪ったモノへふり上げた手をおろして、復讐の火を掻き消した。

 なんとなく手を取って、踊りの真似事をしてみた。彼女もノリが良い、わからないなりに、ぐるりと一緒に回ってみたりして。変わらない世界に変えた今、世界も一緒にまわしてやる。

「ねえ!」

 誰もいない世界に声が響いた。当然だ。うるさい連中は全員ぶちのめした。後には中立を気取ったエゴイストが二人。世界の事なんか知った事か。

「どうしてそうしたの?」
 きっと無邪気な問いかけだ。罰当たりだと嘆く神様を蹴飛ばした足のまま、空っぽの大聖堂を足蹴にして、出鱈目なステップを踏む。
 水面から覗く廃都市を観客にして、愉快になって大声で答えた。

「だってその方が、気持ちがいいだろう!」


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?