『幾つかの貝』

"この島を離れる時が来て、私は今、荷造りをしている。
この島でしたこと、ここの浜辺であれこれと考えた事から私は何を得ただろうか。
私の生活において、どういう解決を見つけることができただろうか。

わたしのポッケには幾つかの貝殻が入っていて
それはそれだけの手がかりになるが
貝がらはほんの僅かしかない。

この島に来たての頃のことを振り返ってみるとわたしがひどく欲張りな貝殻の集め方をしていた感じがする。
ポケットはいつもまだ海水に濡れた、
そして隙間には濡れた砂がついたままの貝殻でいっぱいだった。
浜辺には美しい貝が一面に散らばっていて、
わたしはその一つでも見逃したくなかった。
足元に気を取られて、顔を上げて海を眺める暇もなかった。

『蒐集家』というのは大概のものに対して目隠しをされているようなもので
自分が探しているものの他は何も見えない。
それ故に、所有欲は美しいものを本当に理解することと両立しないのである。しかし服のポケットというポケットが伸びきったうえにびしょ濡れになり、本棚も、窓の棚も貝でいっぱいになった後、私は欲張るのをやめて、集めた貝の中からいいものだけを選び、他は捨てることにした。

浜辺中の美しい貝をすべて集めることはできない。
少ししか集められなくて、そして少しの方がもっと美しく見える。つめた貝が一つある方が三つあるより印象に残る。空に月は一つしか輝いていない。ひので貝は一つならば見付けものであるが、六つは、学校に行っている時の一週間と同じで、一つの連続でしかない。
私はそのうちに捨てることを覚えて、完全なものしか取っておかないようになった。珍しい貝でもなくていいが形が完全に保存されているもので、島も同様にこれを銘々から離して並べた。
なぜなら、まわりに空間があってはじめて美しいものは生きるからである。
事件や、ものや、人物はそうして初めて意味があるので、だからまた、美しくもあるのである。一本の木は空を背景にして意味を生じ、
音楽でも、一つの音はその前後の沈黙によって生かされる。
蝋燭の光は夜に包まれて花を咲かせる。つまらないものでも、周りに何もなければ意味があって、東洋画で白紙のままにされた片隅に秋草が何本か書いてあるのもその一例である。"

海からの贈り物 /アン・モロウ・リンドバーグ
訳:吉田健一 《幾つかの貝》

聴きながら書いたから改行も私なりの解釈だし誤字脱字もめちゃありそう
本買ったら直そう

色々と読んでもらった本を聞いたけど
今のところこの本が1番好き

文字におこすと油絵で
朗読を聞くのは水彩画
みたいなイメージ。私の中で。