自分のことが嫌いで好きな話

私は自分の作品は好きだけど自分のことはまあまあ嫌いで、過去は全部消し去りてえなあ〜〜〜〜って感じ。3秒前のことすら消し去りたい。お察しの通りメンヘラです。
でも過去をなかったことにする、というか過去をやり直したところで今の私にならないなんて保証はないし、そもそも私の大好きな私の作品(「私の大好きな」は「作品」にかかります)を書けるようにはならなさそうだから結局この大嫌いな過去を大事にしていくしかないんだろうとは思う。私の作品の魅力は「晴天と常にその影にある石の下の地面の湿り気」もしくは「真夏の青空の下、薄暗く見通しの悪い雑木林の影」だと思っているので、これは私自身が歪んだ社会不適合者じゃないと書けない。と思う。多分。
こんなことをつらつら書くきっかけはtogetterで日本が戦争に勝ってたら世界のアニメ事情はどうなってたかなーって内容のまとめだ。歴史はあまり詳しくないけど、個人的には現代のようなアニメ文化は形成されないと思う。まとめられてる方が書いていた「『負けの美学』がない」っていうのが一番の理由だ。まとめ自体はいろんな可能性が書かれていて面白いのでぜひ読んでほしい。「『負けの美学』がない」という一言を目にしたとき、私は自分のことを考えた。
自分のことを、歪んだ社会不適合者だと思っている。人間のなり損ないだと思っている。生まれてくるべきではなかった人間だと思っている。頭がおかしいと思っている。失敗作だと思っている。親にはこんな娘で申し訳ないと思っている。けれど、私は失敗作だからこそ「光に照らされてより濃くなる影を」書けるのかもしれない。鬱屈した精神を持っているからこそ心の澱を言葉にできるのかもしれない。
今のコンプレックスがまったくない自分を想像して、今の私が書いている話を書けるかと問われたら間違いなく首を横にふる。頭がおかしくないとこんな話書けやしない。

だから私は失敗作でいいし、社会不適合者でいいし、頭がおかしくていい。ただこんな娘で申し訳ないとは思う。

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