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娘が初任給でご馳走してくれた夜のこと

社会人になった娘が先日ご馳走してくれた。

娘が小さかった時、僕は借金してアメリカにMBA留学していたので、文字どおり爪に火を灯すような貧乏学生生活を送っていた。

同じ年頃の子どもたちが通っていた幼稚園は費用が高かったので、行かせられなかった。
近くにある”Price Chopper”とか”K-Mart”といったスーパーに託児スペースがあったので
「ほら、Kinder Gardenだよー!」と言って連れていっていた。
ここが幼稚園だと信じ込んでニコニコ顔でお姉さんと遊んでる娘はかわいかったなー。

そして、K-Martで安売りしていたキッチンセットを購入して、おままごとセットと一緒に誕生日にプレゼントした。

娘はそのキッチンセットで料理をつくってくれて、何度も何度も
「これカレーだよ」
「シチューもできたよ」
と言って僕に持ってきてくれた。

「おー!シチューつくってくれたのかー」
「(もぐもぐ)おいしーなー!!」

とやると、また次の料理を持ってきてくれる。

でも僕は山のように積まれたコースパケットをこなす予習に忙しく、スタディグループの準備もあり、
「早く終わらないかなあ」とか、「そろそろ切り上げないとなあ」
なんてことを内心思っていた。

あの頃僕はなんであんなに急いでいたんだろう。
目の前に二度と戻らない宝石のような時間があったのに。

2歳の娘のつくってくれるシチューを食べることに比べれば
翌日のケースの予習なんてどうでもいいことだったのに。

今あの頃の娘と一緒に一時間おままごとをして過ごせるとしたら、いくらだって払うだろうに。

大切な瞬間のことを、我々はいつも過ぎてしまって初めて気づくのだ。

子が育つ過程で親にはいろんな思いがある。
学力のこと、いじめや学校生活のこと、進学のこと、スポーツのこと。

僕も、娘が高校生になった頃、ジャズトランペットの才能をもっと伸ばすチャレンジをすればいいのに、なんて思ったりもした。

でも過ぎてしまえは、すべては小さな小さな出来事だ。

健康で、優しくて、人のことを思いやれる人であってくれることに比べれば。

ひとりの大人として共に過ごしていて心地よい人であることに比べれば。

娘がご馳走してくれたディナーの終わりに、娘が店員さんにむかって財布を取り出して言った
「お会計お願いします」
という何気ない言葉で泣きそうになった。

大病をせず、大きな事故に遭わず、こうして大人になれた彼女の人生の軌跡が、これまで気づかずに内包してきたたくさんの奇跡のことを思った。

そのひとつひとつに娘が出会ってきたたくさんの人たちの関わりがあったことを思う。

自分のこと以上に、その奇跡のあまりの奇跡性に手を合わせたい気持ちになる。

子どもが小さい時の時間はそれ自体が宝石だったのだと改めて思う。

それを学ばせるために子育てという自分にとっての二つ目の円環があったのだと知る。

あらためて無事に育ってくれてありがとう。
娘が無事に育つ過程に関わってくれた沢山の方々、ありがとうございました。

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