見出し画像

幕末諸々備忘録 その三 『北越戦争』


「幕末諸々備忘録」として、旧住所ブログからいくつかエントリをサルベージしておきたくなり、その三。

(2019/7/19)

北越戦争というと河井継之助で、実際河井継之助なのだが、継之助ばっかだとどうもなあというのがある。
これまた司馬遼先生のお手柄というか、『峠』の影響が絶大なのだ。

で、ミリとしての関心事は当然ガトリング砲ということになり、はたして本当に使用されたのかどうかなのである。

河井継之助の史料は明治期に最初に出た『河井継之助伝』というのが1次史料に近いという意味で日記をのぞけばほぼ唯一の決定版らしく、これは国立国会図書館デジタルコレクションからまるごとDLできる。

ガトリング砲に関する記述は、これ163コマ221コマあたりである。


(二七八頁)
‥‥‥フアーブルブランドも亦繼之助と親交ありしが、其際フアーブルブランド方へ輸入されし速射砲三門は、亞米利加南北戰爭の經驗に依りて改良されたる最新式のものにして、一門の價五千兩なりと傳へられしが、其うちの二門は繼之助これを購入せり。鈴木摠之亟の日記(慶應四年五月朔日の條)に、『草生津御固場にて、御新調之機關砲を見る、多大砲二門にて、價一萬二千金の旨』とあり、又『衝鋒隊戰史』に、河井は三百六十發元込め六ツ穴のカツトリング速射砲を自ら操縦し云々とあるは、即ち是なり。‥‥‥


(三九四~三九五頁)
‥‥‥繼之助は西軍の渡河侵入せりとの報に接し、大に驚き、直に機關砲隊(當時の呼稱に從う)を率ゐ、馳せて兵學所に向ひしに、同所に防戰中の長谷川隊長に會す。長谷川隊長云く、此地戰に利あらず、寧ろ上田町若くば渡里町口に退きて防戰する方然るべしと。繼之助其言を然りとし、引返して内川橋に至れば、寺島の敗兵、東堤に據りて殊死防戰するあり。繼之助衆に告げて曰く、我れ是より敵を渡里町口に防がむと欲す、諸士橋を燒て扼戰せよと。斯くて大手口に赴き、諸隊を督して渡里町口より進入せんとする西軍を防ぐ。會ま流丸左肩を傷く、繼之助屈せず、自から大砲を連射し、『どうだ甘く中るだらう』と頻りに味方を激励し、防戰頗る力むる所ありと雖も、此場合、固より支ふベきにあらざれば、終に諸隊に命して城中に退かしめたり。『衝鋒隊戰爭略記』に云く、『河井繼之助、古屋作左衛門、老少小者などを指揮し、大手門前土手を楯とし、河井自らカツトリンクゴン速射砲(三百六十發元込にて、六穴の大砲なり)を頻に發し、敵數人を打殪す、然れども衆寡敵し難く、我が小者七八人斃死す、河井も肩先を打拔れ、力盡しかば、城中に入る云々。』‥‥‥


この『河井継之助伝』、いにしえの文体で、当然旧字だらけで、現在ではほとんど使われない熟語とかも頻出するので、なんとなく雰囲気では読めるものの、ちょっと精査したい箇所など漢和辞典を引っ張り出してたいへんなのだ。

しかし、内容は北越戦争の状況・エピソードすこぶる詳細で面白く、継之助以外の―――安田正秀、川島億二郎、加藤一作、二見虎三郎、松蔵、鬼頭熊次郎、外山寅太、花輪求馬、三間市之進、山本帯刀(後の養子が山本五十六)、小林虎三郎(米百俵!)、稲垣平助、あるいは官軍側の山県狂介なんかの視点からこの戦を描くと、よりこの戦争の「無」がはっきりするのでないか。

キャラクターとしては、継サはしょせんステロタイプの「さむらい馬鹿」なので‥‥‥


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?