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春はめぐりて



 

 クラスメイトに囲まれて歩くと、なんだか大人っぽい匂いが立ち込めてきて、わたしはクラクラする。大人になったらいい匂いがするようになるんだと思ってた。自分の匂いは自分ではわからないけど、きっと大人の匂いはしていない。
 化粧のこととか、誰かに聞いてもいいのかなぁ。
 高校はきまりがゆるいみたいで、周りの子たちは化粧をしている子が多い。隣であははと笑うしまこちゃんの目の下も、宝石が砕けたみたいにキラキラしていた。
 体だけは大きくなってるはずなんだけどなぁ。でもこれから高校生になりきれるかなぁ、わたし。

 ぽーっと歩いていたわたしを現実に引き戻したのは、階段下で談笑する松本先輩だった。平田先輩が手を叩いて大袈裟に笑っている隣で、「やれやれ」って顔してる。
 松本先輩かぁ……。
 勉強会の時も思ったけど大人だなぁ。かっこよくて、背が大きくて、頼りになる先輩。また勉強教わりたいなぁ。
 しまこちゃんたちが階段に足をかけて振り返る。「どうしたの?めぐりちゃん」
「あ、ううん、別になんでも……」
 しまこちゃんたちに話しかけられたのに、視線はずっと松本先輩を追いかけていた。先輩の顔に、磁石でもついてるのかな?しまこちゃんたちがわたしの視線を追いかけそうな気がして、わたしはしまこちゃんたちを追い越し、「なんでもない、なんでもないんだよー」と手を振りながら階段を駆け下りる。高校の階段の壁際には『ろうかとかいだんははしらない』なんて注意書きもない。だからと言うのも言い訳だけど、わたしはうっかり階段を踏み外した。変な声が出て、うまく着地しようとした足がもつれて、ああ、やばいーーと思って、ぎゅっと目をつぶった。

 思ったより地面は柔らかくて、なんだか違う大人の匂いがした。でもすぐにきづいた。これは地面じゃない。足も腕も痛くなくて、ぎゅっとすると、ざらついた制服の感触。

「……大丈夫?」

 耳元で聞いた瞬間、心臓の下半分をぐっと掴まれる感覚がした。しびれたみたいに動けなくなって体を預けたら、背中をぽぽんと優しく叩かれて、顔をがばりと跳ね起こした。
 目の前に唇がある。ゆっくり視線を上げると、松本先輩の青い瞳がわたしを捉えていた。

「怪我ない?」
「あっ……な……心臓……」
「え、心臓?心臓って言った?」

 しまこちゃんたちだけじゃない、知らない視線をいっぱいに浴びて、わたしはファーと頬が熱くなるのを感じた。視界がぼやけてき、松本先輩のブレザーと胸元を見たとき、抱きついてしまったわたしを認識してしまって、ファーと熱くなった頭で「大丈夫、大丈夫です」と言いながら、鼻からドバッと何かがあふれて、そこからの記憶がない。

 気づいたら知らない天井があった。わたしはぽーっと30分くらいは天井のシミを眺めて、ようやくわたしの体に、わたしの心がもどってきている。

「階段で転けたみたいよ。三年の松本君が運んできてくれたから、後でお礼を言いにいきなさい。怪我がなくてよかったわね」

 保健室の先生は、松本先輩のクラスを教えてくれた。もう次の授業は始まっていたから、わたしはその次から復帰します、と言って、ベッドに潜った。

 わたしが心にもどってきたら、もどってきたわたしが心臓でさわぎはじめた。とてもドキドキして熱いのに、恥ずかしくて布団から出れない。

 松本先輩がわたしをたすけてくれた。
 松本先輩に抱きついてしまった。
 ぎゅっとしてしまった。
 声、低くてかっこよかったな。
 心配してくれてたのかな。もうしわけないな。
 あ、鼻血ついてないかな。

 いろんなどうしようが頭に浮かんでは消え、でも抱きしめた時の感触がずっと頭と胸と二の腕と手のひらに残ってしまって、ファーと熱くなっていく。そして心臓がさわぐ。心臓が火にかけられたみたいに、下から熱くなっていって、全身に広がっていくみたいな。そんな感じ。

 心臓が焼けると調べても、あぶない病気がたくさん出てくるのでやめた。ちょっとこわくなるから。でも、なんとなくわたしは分かっている。これは、そういう病気じゃないんだと思う。でも、だったら、どういう病気?

 保健室の先生に聞こうと思ってベッドを出たのに、口をついて出たのは
「あの、ベッド使わせていただいてありがとうございました。もうすっかり良くなりました」
 だった。あれ。わたし、そんなこと言おうと思ってなかったのに。わたしの心は、まだ戻っていないのかもしれないな。変な熱いわたしが、心に入り込んじゃってる。

 保健室から教室に戻る際、わたしはわざわざ遠回りして、転落しかけた階段にいってみた。ここでわたし、松本先輩にぎゅってして、それで、変になっちゃった。

 もしかしてわたし、こんな風にして、中学の記憶がなくなっちゃった?

 階段に置いてきちゃったわたしを回収したら、ぜんぶ元に戻るかなって思ったけど、全然そんなことはなくて、尚更ドキドキが増してクラクラしたから、すぐに引き返した。また先生にお世話になるわけにもいかないしね。

 わたし、どうしちゃったんだろう。


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