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オダネネSS 海の家⑤ベランダ




 隣町に行く途中、通り雨に降られて最悪だったけど、なんとか買ってきたカレーパンと牛乳は濡れないように守った。家に着くと、「えのちゃんに何したのねーちゃん!」と顔から湯気が出ている苗夏を軽くあしらって、服を着替えてすぐに2階に上がった。榎本の部屋から漏れ出た冷房の空気で廊下が冷たい。あいつちゃんとここに帰ってたんだな。

「入るぞ」

 あたしは榎本の部屋をノックもせずに、ずかずかと踏み入った。「なっ」と言葉になりきれない声をあげて抗議を始めた榎本のTシャツがあたしのお下がりで力が抜けた。2人目の妹みたい。

「お前なぁ、泣き跡ついてんぞ。どーしたんだよ」
「気のせいだ!出て行ってくれ」
「いーから。これ食おーぜ」

 榎本に隣町で買ってきたカレーパンを押し付けて、あたしは窓をカラカラ開けてベランダに出る。少し背伸びして、フェンスに肘をつき顎を乗せると、立ち込めてくる雨上がりの匂い。

「なんだっけこれ。ペトリコール?」
「違う、雨上がりはゲオスミンだろう」

 言いながら榎本もベランダに出てきて、同じように肘をつく。気怠そうに袋を開け、パンに齧り付く。ゲオスミンの匂いはたちまちカレーに乗っ取られた。鈴虫のコーラス。空が黒い。

「美味いだろ」
「まあまあだな」
「ぎゃはっ!そーかよ」
「やらないぞ」
「ばーか、いらねーよ」
「なんだと」
「なんでプール来る前から不機嫌だったんだよ」

 なんかあったのー?と聞く。榎本はカレーパンにかぶり付く。頬張りすぎてもう半分以上ない。

「……別に何もない」
「そのカレーパン、400円もすんだぜ」
「通りで悪くない味なわけだ。……ところで織田君、おかわりはないのか」
「あるぜ。不機嫌な理由話してくれたらやる」
「卑怯だぞ」
「だってそうじゃねーと話さないだろ」
「どうしてそんなに知りたがる?」
「悩みぐらいは聞いてやるのが友達だろーが」

 降格したのか……と寂しそうに呟く榎本に「降格?」と疑問を口にしたら「……私たちは親友だったはずだろうよ」と言う。なんだそれ。

「友達も親友も変わんねーよ」
「全然違うだろう。グレードが違うな。一番とその他大勢では天と地の差がある」
「じゃあ1番の友達、親友。これでいーか?」

 榎本はふむだかうむだかの返事をして、こてりと首を倒してこちらを向く。前髪がサラサラと揺れている。帽子を被っていない榎本にも見慣れてきた。

「お前なぁ、そもそも当たり前だろ?友達だからプール呼ぶんだよ。一番だからお前に連絡して、あとのメンバーは小虎にテキトーに集めさせんの。そんなのもわかんねーのか」

 榎本は前髪を摘んで、「わからないよ」と呟いた。嘘つけよ。見上げると雲の流れが早い。空に吊り下がる黒雲の群れを、ぽーっと二人見つめる。

「……早く言えよ」
「何をだ」
「機嫌わりー理由に決まってんだろ!」

 榎本はカレーパンをガツガツ食べてごくんと飲み込むと、手を差し出す。牛乳を渡すとまた勢いよくごくごく喉仏を鳴らす。ぷはっと小さく息をついて、口周りを白ひげサンタみたいにして、「美味い」と言う。
「ぎゃはっ!で、なんだよ。なんで怒ってた?」

 カレーパンをひょいと放り投げると、焦ってお手玉している。ベランダから落っことしそうになって笑った。「織田君、もう少し考えてくれ。パンが台無しになったらどうする」と真面目な顔して怒る榎本。でも、プールの時とは違う。落ち着いた、いつもの榎本の怒り顔だ。
 カレーパンを頬張って、榎本はパンの中身をじっと見つめる。一緒に暮らして分かったことだけど、榎本は何かを一口食べると中身を観察する癖があった。「何でだ」と疑問を口にする時みたいな、真っ直ぐな双眸で見つめて。中身に納得いったのか飽きたのか、榎本はあたしに向き直った。

「……実はプールにはいわゆるトラウマがある」
「うん」

 曰く、榎本は中学時代にいじめを受けていたらしい。特にプールでは先生の目が届きづらいこともあって、足を引っ張られたり、溺れさせられたり。

「まじかよ」
「全て本当の話だよ。極めつけはプールに勉強道具を放り投げられた。あれは正直私でも応えたよ」
「お前べんきょー好きだったもんな」
「違う。勉強道具を放り投げられて私は咄嗟にプールに入って勉強道具を回収した。全身ずぶ濡れになって帰ったよ。割愛したが、私はその事件前は更衣室に閉じ込められていたから、夜遅い時間になっていた」
「……早く帰って勉強したかったのか?」
「違うな。母の帰宅時間が近かった、ということが一番の問題だった。制服も勉強道具も全部ずぶ濡れになっていたからな……そんな私を見れば母が心配してしまう。だがそういう時に限って母の帰宅が早くて、結局は母の知ることとなったよ」
「そーか……」

 あたしは「悪かった」と謝った。胸ポケットを弄ったけど、煙草は制服に入れっぱなしだった。榎本は、帽子を被り直そうとする手癖が空振りして、宙ぶらりんになった右手を慌てて引っ込めた。

「中学時代のプール授業の時はクラスメイトがピラニアにすら見えたが……織田君はそうは見えなかったよ。悪意はあっただろうが」
「……まー、お前が元気ないからイタズラしてやろうとは思ってたけど、悪いな」

 榎本は何かまだ言いたいことがあるようだったけど、牛乳をごくんと飲み干していつものポーカーフェイスになった。あたしは所在ない片手をようやく頭の後ろに持っていくと、「あたしもさ」と切り出す。

「あたしもさ、いじめられてたぜ昔」
「織田君。変な慰めはやめてくれないか」
「いやマジだって」
「なんだと」
「ちょーっとあたしにも暗い時があったんだよ。んで、なんかいじめっぽいことされてな、もっと沈んだけどさー……」
「ふむ」
「けど、なんか結局な、いじめられてるやつをボコボコにしたらいじめはなくなった」
「そうか。それなら納得はいく」
「何の納得だよ」
「いや、こっちの話だよ」

 そういえば織田君の過去を聞いたことがないな。と榎本は言う。

「苗夏ちゃんとは血は繋がっていないだろう。あまりに顔が似ていない」
「悪かったな!あたしの方がブスで!」
「そうは言っていないが……確かに顔が整っているという意味では、織田君はかなり分が悪い」
「お前突き落とすぞ」
「よし、次は織田君の番だな。ほれ、親友の私に心置きなく話すといい。なに、遠慮はいらないよ。織田君のことで引いたりなどすることはない。どんな過去でも話してくれたらいい」
「お前なー……」

 榎本はすっかりいつもの調子を取り戻して空を見上げていた。空では太陽が復権気味で、夕影が町を彩っていく。榎本が虹は見えないな、と呟いて見上げた横顔が、いつかの榎本に重なった。

「父の事は今でも尊敬しているよ」

 と言った、あの日の榎本に。

「あたしもお前と一緒だよ」
「一緒?……ああ、いじめの話か」
「いーや。それだけじゃねーよ。親の話。あたしも父親は死んでる。なんなら母親と……育ててくれた義母も死んでる」
「そんなにか」
「まーな。これ、あたしも最近知った話なんだけどな」






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