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もう少しだけ

今年も私は母の命日に帰省しない。お参りもしない。

年末年始、遠方に住んでいる私は交通費が高いのを言い訳に毎年帰省しない。

交通費が高いのが本音。でもちょっとは未だに命日が怖いからかもしれない。

毎年私は窓から空を見上げて、心の中でありがとうと呟く。それだけ。


母との記憶はたくさんあるが、母が闘病した8ヶ月の記憶が強すぎて、特に冬の記憶はほとんどそれしかない。

11月。母が一時退院して、家族みんなで京都に紅葉を見に行った。車椅子を押す手が震えた。

骨がもろくなってたから、転んだり衝撃はよくないと聞かされていたのに、私しか家に居ないときに母が転んでしまった。母は泣きそうな声で叫んで私を呼んだ。

12月初旬、母の誕生日。フォークがケーキに届かなかった。脳に転移していたことを知った。

痙攣を起こした。看護の知識がある姉が冷静に救急車を呼んだ。居合わせた私は背中をさするしかできなかった。母は怯えていた。

当時受験生だった私は学校と勉強を理由に週末しかお見舞いにいかなかった。次に会ったときには言葉が発せなくなっていた。

年末、亡くなる前日。病室に泊まった。ひっきりなしに音が鳴っているから寝れなかった。ベッドの横には大きい注射器のようなものが機械に設置されていた。あれが医療用麻薬ということは大人になってから知った。お母さんがもうこんなになってるなんて知らなかった。

そして、母がなくなった。

学校から帰るときに電話がなって、タクシーで40分くらいかけて病院に向かった。

病院についたら二番目の姉がタクシーのお金を払ってくれている間に急いで病室に向かった。

まだモニターの電源がついていた。私が最期の挨拶をできるように、お医者さんが配慮してくれてたみたい。

よくわからなくて、強がって、泣くのを我慢した。ろくなお別れの挨拶をしていない。

年末ということもあり、ばたばたとお葬式の準備が進んで、少しの休息の間に母の携帯電話を開いた。カレンダーをみたら退院日や卒業式の予定が楽しそうな絵文字付きで登録してあった。

初めて涙が止まらなくなって、父が抱きしめてくれた。きっと自分もすごく悲しいのに、強がりで気丈に振る舞う娘たちのことも気がかりだったんだと思うと素直に悲しめなかったのが馬鹿らしく思えた。


こうやって書いていると、すごく長く感じていたあの冬も、思い返せばあっという間の出来事だったんだと思い知らされる。

最期の8ヶ月、逃げていたことを後悔している。

後悔したけど、なかなかお参りに行けない。

家族と母のことを話すとき、明るく振る舞うし、気にしてないようにする。全然向き合ってないな。

みんなそれぞれ悔しい想いはあると思う。でもきっと家族は私がこんな風に後悔していることを知らない。未だに思い出して泣いていることも知らない。同じように家族がどう思って過ごしているか私は知らない。きっと思い出して泣いたりしているのだと思う。

みんなの家族で、みんな家族で。大切なことなのに。話したいけど、話したくない、話せない。そんな思いが邪魔してここまできた。

今更になって母の闘病生活をきちんと知りたいと思った。きっと聞いたら教えてくれるんだろう。聞けるのかな。少し怖い。

大人になって離れて暮らしている間に父はどんどん年老いる。なんだ泣きそうになって直視するのが怖い。いつでも帰省すればいいのに言い訳をする。今のうちに会っておかないと後悔するのはわかっているのに。

別れが怖いから、死に近づいていく様を見るのが怖い。


もう少し、もう少しだけ。


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