11月30日の日記 復讐返しのできない葉っぱの弱さ
・朝からグラスを蹴って落とす。二重グラスでルイボスティーをあっためてくれていた大容量グラスは、その元の姿さえ分からないほどグシャグシャになってしまった。朝からショックを受ける。
・最近物を壊してばっかりだ。自分の迂闊さが悲しい。
・ちいかわ島編のことを考えていた。
・セイレーンの島民たちは共生できていたと島二郎は語っていたが、それは平等だったという意味ではないだろう。明確な武力格差があったから穏当を保っていただけで、一人が人魚を殺してしまえば容易く崩れるほどの危うい均衡だった。(そしてその均衡はたった一人でも崩しうる程度のものだった)
・自由や権利の観点から見れば、セイレーン一味が島を支配するなら、その支配に反抗する権利を島民は有しているはずだ(合衆国憲法参照)。
・しかしその権利をセイレーン一味は保証していない。だから葉っぱ二人は逆襲に遭った。ロジカルだ。
・しかしこれは、ちょっと見方が近代過ぎるだろう。あの島にはどう考えても「社会」が存在しない。つまり法律もなく、神もいない。いるのは人食いの怪物だ。
・法の守護を受けない弱者が怪物に相対して生きる姿を、島編では描いたのだと思う。
・葉っぱたちには深く同情している。弱くて後ろ盾のない二人が強大なセイレーンを敵に回し、未知のからだで生きていくのはどれほど深い恐怖だったか。決して想像に難くない。
・他者(人魚、他の島民)を犠牲にしなければ生きられない弱さ。その弱さ=悪のために、葉っぱ二人はセイレーンに……されてしまった。
・しかし、他者を庇わなければセイレーンに身柄がバレることもなかった。単三電池発覚シーンはなかなか皮肉がきいている。その弱さのなかにあった勇気によって葉っぱたちは人魚食いを把握されてしまったのだ。(単三電池発覚シーンって何?)
・島編では、弱さは悪であり、そして勇気は弱みをさらけ出す行いだった。
・可哀想だ。可哀想で、きらめいている。可愛い。ク〜〜〜〜。
・これはあくまで葉っぱ二人から見た感想。セイレーンから見た今回の事件は、「突然手下が食われた」が発端だ。自分が起こした事故を認知していない以上、セイレーンにとっては因果関係が存在しない。
・セイレーンから見れば正当な復讐なのである。
・葉っぱの憤怒や恐怖に惑わされないセイレーンは、強い。強いから頓着しないのか、頓着せずにいられるから強いのか。両者が渾然一体となった原始的な生き物のように見える。
・行動原理がシンプルで目的を平気で達成できる様は、自由だ。これはちいかわ族では得られない。自由の源泉は暴力にある(究極的に言えば、暴力というパワーを行使できない存在は自由とは言えない)。
・ナガノさんは、弱さと強さの両方を描いている。
・ふとエレン・イェーガーのことを思い出した。圧倒的暴力。恐怖による支配。シンプルさの希求。
・セイレーンに感情移入していたら、私の意見は全く逆になっていたと思う。誰を視点とした物語なのかからは逃れられない。
・日記の冒頭を読む。グラスを割ったことを思い出してへこむ。
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