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箱入り娘がHFAを始めた理由

箱入り娘からサラリーマンへ。そんな私がなぜHUG for ALLというNPOを立ち上げることになったのか。2019年に整理した理由を、改めて残しておきたいと思います。

①家族も親族も大好き!な子ども時代

地元の総合病院で産婦人科医をしている父と、専業主婦の母。そして弟二人。京都の宇治で、のんびりと生活をしていました。夏休みと冬休みは母方の実家がある岡山に行くのが楽しみ。岡山に行くと、祖父母と伯父伯母に甘やかされながら、いとこたちに一緒に遊んでもらうのが日常でした。また、滋賀に住む父の姉も大好き。1歳違いの従弟もいて、いつも伯母家族に会えることを楽しみにしていました。

おじいちゃん、おばあちゃんが大好き。親戚のおじさん・おばさんも大好き。いとこも大好き。ちょっと引っ込み思案で人見知りな性格でしたが、家族や親族に大事にされて、すくすくと育ててもらいました。

②ヒトは好きだけど、ヒトが怖い

のほほんと育ってきた幼少期でしたが、小学生になったころから、人間関係に悩み始めます。最初はたぶん小学校2年生のとき。1年生のときに同じクラスで仲の良かった女の子に、2年生になってちがうクラスになったあと「もう友達じゃないから、会っても手を振らないで」って言われたのがきっかけです。

人は大好き。人と関わりたいし、人に好かれたい。でも、その気持ちが強すぎて、人の心がわからなくて「怖い」って気持ちがぬぐい切れない。そんな悩みを抱え続けた小中学校時代だったと思います。

他の人が気になる。何を考えているのか気になる。私のことを受け入れてほしい。だから、隣にいる人に何を話していいかわからない。そんな中で、小学生のころから、明智小五郎シリーズとか、それ以外の江戸川乱歩とか、シャーロックホームズとか、アガサ・クリスティとか、探偵小説が大好き。将来の夢は探偵といいつつ、血は嫌いだからどうしよう…と悩む子どもでした。一方、赤毛のアンや、若草物語、十五少年漂流記なども大好き。人の心の難しさも、人の心の美しさも、どっちも信じている子ども時代。当時は「にんじん」の物語の意味が全く分からず、変な本だなぁと思った記憶が残っています。「にんじん」の意味は分からないまま、中高生のころには、欧米の多重人格者の記録などに興味を持って読み漁る日々。

なんとなく人との距離感を覚えた高校時代でしたが、それでもやはり、人の心の難しさと、それを癒す仕事の大切さを感じて、大学ではカウンセリングを学べる学校を選びました。

③箱入り娘が就職・転職に失敗

大学に入って「あれ?私って箱入り娘なの?」ってなんとなく感じていた4年間。徹底的に感じたのは、大学4年の春。気づけばまわりはみんな就職活動をしていたのに、私は「あれ?就職ってするんだっけ?」くらいのテンション。みんなが就職先を決めている4回生の4月頃に、母に「ね、就職ってしなきゃダメ?」と聞いて「え?して?」と言われて、初めて「就職するんだ!」と思ったのを覚えてます。

神戸を離れたくない&手に職とかゆるく考えた私が選んだのは、銀行系のIT会社。神戸でSEとして3年働いて、先輩方の学び続ける姿勢に「ああ、かなわないな」と思ったり、意に染まないチームに組み入れられたりして、あっさり転職。新卒採用のコンサル候補として転職&東京へ拠点をうつしたものの、会社の事情で数カ月で営業へ。職場の雰囲気も、飛び込み中心の営業スタイルも合わず、7時から12時までの仕事に疲れ果てて、ふと気付くと高熱が続く毎日。実家から「帰って来なさい」と言われたのをいいことに、会社には診断書を提出して退職、実家の京都で家事手伝い生活へ。自分に合わない就職・転職をして、危うく壊れるところだったのに、実家に帰ることができて、とても幸せだったんだなと思います。

④家事手伝い生活

その後は家事手伝い生活に突入。昼までだらだら寝て過ごし、お昼ごはんを母と食べながら、夕食の相談。15時ごろから母と夕食準備を始めて、18時に父が帰宅。18時から父と晩酌しながら、のんびり夕ごはん。たまに友人と遊びに行き、父から「お小遣い足りるか?」と声をかけてもらって…。という生活をしていました。その生活が約半年。

一緒に遊んでいる周りの友人たちはきちんと自立していて。「さすがにダメじゃないかな」と思って転職活動を開始。保険会社の事務職なども受けてみたけど、適性検査であえなく不合格。そんななか見つけたのが今の会社の求人。ベネッセの「赤ペン先生のマネジメント」業務。東名阪での募集だったので「東京なら断ります。大阪希望です。」と言っていたら、なんとまさかの「名古屋採用」。京都からなら時間的には大阪とそんなに変わらないということもあり、そのまま名古屋の事業所へ転職。たやすく学校で居場所をなくしがちな子どもたち。「ななめの関係」である赤ペン先生が、救いの存在になることもあるはず。面接ではそんな想いを語ったことを思い出しました。

⑤ベネッセ生活

赤ペン先生のマネジメントの仕事はトータル10年ほど。名古屋で2年。東京で8年。主には先生たちと直接対話する仕事と、組織開発・業務設計の仕事をしていました。会ったことのない子どもたちに心を寄せて、一人ひとりの学校生活や友達との関係性を心配するたくさんの赤ペン先生。先生たちと一緒に、子どもたちにどう寄り添えばいいか?を考えることもしばしば。個人的に大好きな仕事だったと思います。

でも30歳を越えて「次のキャリアどうする?」と聞かれたときに、やりたい仕事が他に特にないことに気づきました。人事とか広報とか、コーポレート系の仕事を言ってみたものの、特別な資格もキャリアもないためあっさり却下されてしまい。「さあ、どうしようか。」と思っていたとき、たまたま発見したのが「広報・IR講座@六本木ヒルズ」。そこでもらった「日本元気塾」のチラシ。一目で心が動いたのですが、あいにくちょうどその時期、第2期が始まったところ。第3期には絶対に応募しよう!と心を決めました。

⑥元気塾生活

無事に選考も通過して、通い始めた元気塾の米倉ゼミ。土日も様々なプロジェクトで多忙な20代の若者に刺激を受けたり、様々な強みと熱い心を持つ仲間と対話を重ねたり。見るもの聴くもの出逢うもの全てが新しくて、自分がこれまで見ていた世界がどれだけ狭かったかを感じました。

元気塾に通う中で定まってきたテーマが「子ども」。いろんなものに出逢っても、私の心が動くのは子どもに関わるものが中心で。「子どもの笑顔と未来」みたいな方向性が漠然と定まったのが2012〜2013年の頃だったと思います。このころは、日本の子どもなのか、海外の子どもなのか、それも全くイメージはなく、ただ漠然と「一人でも多くの子どもを笑顔にして、未来に希望が持てるようにしたいなぁ」というくらいでした。バングラデシュやミャンマーに出かけて、自分が何をしたいか、何をできるかを考えていたのがこのころです。

そんな中で知ったのが、Teach for Japanの活動。元気塾の師匠である米倉先生と、TFJ創業者の松田さん、そしてTeach for Americaのウェンディ・コップさんの講演会に行ったことがきっかけです。そして、そこで初めて、日本の子どもの7人に1人が貧困状態にあると知りました。

⑦「子どもの貧困」を知って気づいたこと

最初に受けた衝撃。それは、「私の見てきた日本の子どもの姿はなんだったんだろう」ということでした。私が知っていた日本の子どもは、家庭にふつうに居場所があり、衣食住に困ることなく、家族や親族には愛されたうえで、学校に居場所がなくなってしまう、私と似た環境の子どもばかり。家庭や親族に居場所がないなんていう恐怖は、考えたこともありませんでした。でも、その一方で、日々の生活がままならない子どもが7人に1人もいるという事実。ずっと人に関心を持ち、大学で心理学を学び、そして子どもや教育に関わる仕事をしてきたつもりだったのに。私が感じたのは猛烈な恥ずかしさでした。

そして、改めて気づいたこと。それは、私のまわりにそういう子がいなかったわけではなく、見ないで済むようにしてきたんじゃないかということです。小学生のころ、よく考えるといろんな子がいました。中学受験をして以降、たまたま私のまわりにそんな環境の子がいなかっただけ。よく考えれば、地元には厳しい家庭環境の子も多くいて、私が接点を持っていないだけだったような気がします。

箱入り娘状態で、のほほんと生きてきた自分。敷かれたレールというほどではなくても、なんとなく、目の前にある道を選んで、そして大きな挫折もせずに、のんびり生活をしてきました。就職・転職に失敗したときも、迷うことなく家族に頼り、当然のように実家に戻り、生活の面倒を見てもらい、たまたま今の仕事に就くこともできました。

でも、例えば、私に支えてくれる家族がいなかったら?
家族がいても「戻っておいで」と言ってくれなかったら?
ひとりぼっちでこれからどうするか考えないといけなかったら?

…考えただけで、ぞっとします。なにをどうすればいいか、きっと途方に暮れて、ただただその場しのぎで、楽な道に流されていたと思います。決して「生きる力」を持っていたわけではない私。ただ恵まれた環境にいただけで、個人としてはすごく危うさを持っていたことに気付きました。

そのとき初めて、「子どもの貧困」の問題は、ヒトゴトじゃないんだなと思いました。自分のすぐ近くにあったのに、見ようとしていなかった問題。自分自身だって何か少し環境が違えば、陥っていたかもしれない問題。もっとこの問題を知らなくてはいけない。見過ごしていてはいけない。そんな風に感じて、なにかやらなきゃ・なにか動かなきゃという焦燥感にかられました。

⑧「子どもの貧困」を知ってから

日本に「子どもの貧困」という課題があることを知ってから、その周辺の話題に次第に敏感になっていきました。「児童虐待」や「貧困の連鎖」について認識したのもこの頃です。2012年。まだ今のように「子どもの貧困」も「児童虐待」も、大きくメディアに取り上げられることは少なかった頃だと思います。そんな中、ビッグイシューの方から伺った話がきっかけで「児童養護施設」という存在を知りました。児童養護施設に関わる活動をしよう。そう思ってGoogleを検索して、出逢ったのが「カナエール」というプログラムでした。

「カナエール」は、「スピーチコンテスト」という形をとった、社会的養護下で育った若者の進学支援プログラムです。3か月の準備期間を大人3人とチームとなり、スピーチを作り上げて、コンテストの舞台で発表する。その3か月のプログラムを修了し、スピーチコンテストに出た子どもたちは、毎月の奨学金と共に、学生生活の間、寄り添ってくれる大人の存在を得ることができるという枠組みでした。2013年からこの活動に参画し、2017年までの5年間、カナエールを通して、社会的養護下で育った若者たちと出会ってきました。

そこで知った「児童養護施設」でくらす子どもたちと、子どもたちを支える施設職員の先生方のこと。

子どもたちは、親や家族との離死別・虐待など、さまざまな痛みを持っています。そしてそれぞれ異なる環境から施設にやってきて、ほかの子どもたちと共同生活を送っています。思う通りにいかないこともあれば、これまでなかったルールもある。家族と離れる悲しみもある。どんなに施設の環境が整い、職員の先生方がサポートしても、痛みはなくなるわけではなくて。

そして、親のように子どもたちのことをサポートし続けている施設の先生方。子どもたちの痛みや傷を感じながらも、子どもたちの自立を目指して、生活・学習・進路、様々な面から支援を続けておられます。

子どもたちも先生方も、本当に一生懸命で。でも、それなのに今、施設から巣立った子どもたちが苦しんでいる現状がある。それは何とかできないんだろうか。社会で生活している私たちのような大人が、子どもたちや先生方をサポートできないんだろうか。そんなことを思うようになりました。

⑨偶然の出会い、そしてHFA

そんな中、たまたま友人から「施設の先生が子どもの学習についての相談に乗ってほしいと言っている」と言われ、伺ったのが、現在HFAで支援している八王子市にある児童養護施設です。

先生のお話を伺い、「それならこんな枠組みでお手伝いできそうです」と申し出たことがきっかけで、とんとん拍子にボランティアプログラムの実施が決まり。ほかの団体では実施していないプログラムの形。自分自身で枠組みを考え、子どもたちのために、施設の先生方のために、一番いい方法を模索しながら始めました。

そのとき、プログラムについて相談した友人に「NPOにしたほうがいい」と言われてNPO化を決め。HUG for ALLをつくり、そして「いま」があります。ボランティアプログラムの立ち上げと、HFAとしての方向性の話など、ここからも実はいろいろあるのですが、それはまた追い追い。

目の前に扉が現れて、それを開け続けてきたこれまで。でも、たぶんこれからは、どんな扉を開けに行くのか、自分でデザインをしていく必要があると思っています。NPO代表として、きちんと経営をしていくことができるのか。

「すべての子どもに安心できる居場所と生きる力を」。私の目指す未来のために、HUG for ALLをどうしていくべきなのか。それがこれからの大きなテーマになっていきそうです。


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