見出し画像

21年4月「まなび」を考える Part.1

みなさま、こんにちは。私にとっての「まなび」って何?というテーマでの連続投稿。まず最初は「勉強とまなびって同じもの?」という切り口で考えてみたいと思います。

◆ 私にとっての「勉強」 ◆
小学生の私にとって「勉強」は「当然やるもの」でした。

「働くのがパパの仕事、家事がママの仕事、子どもは勉強するのが仕事」というのが我が家の不文律で、勉強して良い成績を取るべきだというのは私の中での「常識」。学校の宿題は当然やる、それに加えて「ママ勉強」という名の自習もやる。そこに疑問を感じたことは、一度もなかったような気がします。

でも、一方で、私にとって勉強は、決して「好きなこと」ではありませんでした。ただ「やらなきゃいけないこと」で、好きとか嫌いとか考えたこともなかったのだと思います。

「勉強ができたら将来の選択肢が広がるよ」「何かやりたいって思ったときに、あきらめなくて良くなるよ」と言われ続けてきたことも、「やらなきゃいけない」の根っこにありました。「勉強するのは将来のためにやらなきゃいけないことだから」という価値観は、何だか私の中に根強く残っているような気がします。

だからなのか、いま誰かに「勉強はしたほうがいいか?」と聞かれたら、私は「したほうがいいんじゃない?」と言うと思います。一方で「勉強は好き?」と聞かれたら「好きじゃない」と言いそうです。でも「まなぶことは好き?」と言われたら「けっこう好き」と答えると思います。なんだか矛盾があるなぁ…と自分でも不思議に思ったりします。

HFAの子ども支援の中で「まなびってなに?」という問いにぶつかるたびに、この矛盾ってなんだろう?と思っていたのですが、自分の中では「まなび=勉強ではない」ということが前提としてあるのかもしれないなと思います。

◆ 私にとっての「まなび」 ◆
例えば日々の学校での生活のなかでは、授業も遊びも、行事も部活も委員会も、友達関係で悩むことも恋をすることも、きっとすべてがまなびなのだと思います。

もちろん学校以外にもまなびはあると思っています。日々の生活、家族との関係、近所の人たちとの関わり、通学路でみる草花や虫や犬や猫、放課後に友だちと遊ぶこと、一人遊びをしたり読書をしたりする時間、図書館や買い物、おつかいに行くこと、町内会の行事やお出かけ、旅行、塾や習い事、家での勉強…。生活の中すべてにいろんな「まなび」があって、それが積み重なってその人をつくっていくというのが私の「まなび」についての捉え方のような気がします。

そう思うと、私が「まなぶのは好き」というときの「まなび」って、いろんな知識を得たり、いろんな体験をしたりして、自分がアップデートされることなのかもしれません。なんか明確なゴールが絶対に必要な訳じゃなく、とにかく前に進んでいく感じ。わくわくしたり興味を持ったりしたことを主体的に自分の中に取り入れながら、自分自身を変えていくこと。私にとっての「まなび」はそんなイメージなんだと思います。

◆ なんで「勉強」じゃないのか ◆
「勉強」と「まなび」をそれぞれ考えて、なんとなくですが、わかってきました。なぜ私が「勉強を好きじゃない」と言ってしまいそうなのか。多分私の中の理由は2つあります。

ひとつめは「勉強」という言葉そのものに表れている「強いて勉める」というニュアンス。なんかしんどいことをがんばらなきゃいけない。楽しくないことや関心のないことでも学んで、定着させないといけない。そういう「〜しなきゃいけない」に息が詰まって、逃げたくなるんだと思います。そういえば、大学に合格したときに「あー、もう勉強から解放された!」と感じたことも思い出しました。「勉強=しんどいこと、つまらないこと」という感覚が、きっと私の中にあるんだと思います。

もうひとつは、「勉強=正しい答えをだせることがゴール」っていうイメージがあるからだと思います。いろんな知識とか公式とかを覚えて、テストで正解が取れるようにするためにトレーニングをするという感じ。正解を出せないと失格」と言われている気がして、これもちょっとしんどくなっちゃう。

なるほど。やはり私の中では、勉強とまなびは同じものではなく、しかも「勉強は苦しい/まなびは楽しい」という思い込みがあるようです。それも何かちょっと違う気はするので、本当にそうなのかな?ってことは、どこかでもう一度考えてみたいと思います。

Part.1はここまで。次回はインプットとアウトプットについて、考えてみたいと思います。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?