今年最後のnoteとして

気がついたら2022年も終わり…というか、もうあとちょっとしたら2023年が始まっちゃうんですね。
今年はあんまりnoteを活用できなかったなぁ…。

最後にちょっとまとまったことを書いておこうかと思ったのですが、書こうとした内容があまりにも膨大で面倒臭くて厄介なシロモノなのでとてもじゃないけど書ききれないなーとたじろいだりしています。

とはいえ年末だし、恥のかき捨て、では無いですが今年中に書く意味もあったりするので、いつにも増して完成度の低い内容になってしまいますが、せっかくなのでここに書き記しておこうと思います。

その内容は今年後半に唐突に起きた気付きの話で、高2の頃に発見した『人生で一番大事なこと』に気付いた事に続き人生で起きた2回目の発見の内容です。(きな臭くなってきたw)

それは『人はなぜ生きる(生きなければならない)のか?』に対する問いに対しての答えです。

もっと言えば世界で起こっている色々な問題や自分自身について考えるときに、土台となる部分についての答えと言っても良いかもしれません。

・ルッキズムやフェミニズム、障害者への差別
・『なんで死んではいけないの?』という問いに対しての答え
・理不尽なイジメに対しての考え方
・お金持ちで幸せな人もいるし不幸せな人もいる矛盾(?)
・新興宗教やマルチビジネスで得られる幸せは本物なのか
・承認欲求に振り回される理由
・ただしイケメンに限る問題(ガッキー可愛すぎる問題)
・ネットにおけるヘイトと分断
・余命宣告された後に訪れる幸せとは
・創作をする理由

などなど。これらは今パッと考えた事ですが、この世界についてあらゆる問題についてその土台にするべき価値観の一つ。それについてある日唐突に気付いたのでした。
(特に特別なことがあったわけではありません。事故にも合ってないし余命も宣告されていません。ちなみに頭もぶつけたわけではないですw)

あんまりここで勿体ぶってもアレなので、とりあえず私が気付いた内容を発表したいと思います。それは

『幸せになることが人が目指す最終目標』であるということ。

…え?

それ?

ってなりません?めっちゃ普通のことしか言ってなくない?ってw。
分かります。私もそう思いますw。
でもですね、これが私が気付いたことの全てだったりする訳です。
それが全部。これ以上でもないし、これ以下でもありません。

というわけで今回はここで終わりです。ではまた〜!


という訳にもいかないので、もうちょっとだけ説明をw。

私が気付いた結論は、人のすべては『幸せになること』が最終目標なのではなのではないかという【仮説】です。
恋人も家族も仕事も友達も、趣味もスポーツも金儲けも宗教も、戦争もいじめも差別も人殺しも、すべてはその先に幸せがある(と信じている)からこそ意味を感じるし、行動しているのではないかと。

それぞれを説明すると話が広がり過ぎるし長大になり過ぎるのでざっくりまとめますと、上にあげた様々な雑多な行動や考え方の行き着く先として最も根源的で究極的な物が『幸せ』という物なんじゃないかなーと思った訳です。

じゃあその『幸せ』とはなんでしょう?
私は『欲求が満たされた状態』なんじゃないかと思うんですよね。

詳しくはこちらの図(仮)をご覧ください。

これらは満たすべき欲求の図となります。
イメージとしては生物由来による根源的な欲求から派生して、その時々に合わせて多くの人が共感出来る項目がメジャーな欲求となり、個人に合わせてカスタマイズされていく(図には書いてないがそれぞれの欲求から枝葉的に派生する)欲求がマイナーな欲求となります。(メジャー、マイナーと、なんとも雑なネーミングでそこに意味があるのかすら微妙ですがそこら辺は単純に推敲不足ですw)

で、これらの欲求を満たすことで幸せという状態になるのかなと思うんですね。
なんとなく欲求が器で、それが水で満たされるイメージです。
器は全ての欲求を求める場合もあるし、一つだけ選んでそこだけに器を置いて全振りする場合もあるのかなと。
大事なのは『自分が置いた器に水が注がれる状態』であり、器を置いてないところに水が注がれても、あるいは大きな器なのに注がれる水がちょっとだけだと、それは幸せではないという要素なのかと。

余命を宣告される病気や理不尽な死など、多くの場合それは幸せとは遠い状態になりますが、それでも『何を求めるか?(欲求)』によっては幸福を得られると思うんですよね。
また、お金持ちの人や容姿が整っている人が『社会的強者』として必ずしも幸せになるわけではないことも、この器と水の説明で出来るのかなと思いました。
同じ条件で幸せになったり不幸せになったりするのは、求めている欲求が違うからだと思うんですよね。

それは創作にも同じことが言えると思います。

noteは創作をする人が多く集まるSNSですが、私は作品を作ることが必ずしも幸せには繋がらないと考えています。創作をするが故の『産みの苦しみ』とは別の苦悩に苛まされる事も多々あるわけです。
例えば承認欲求。作ったのに評価されなかったり、誰かと比べて劣っていると感じてしまい自分の作っている物が意味がなく感じられたりする人もいるでしょう。あるいは作品を作ってもお金にならないことが一番の悩みだったりする人も多いのではないでしょうか。

それらは『創作をする』という行為は同じでも、創作で求めるものや創作の対価として得たいものが違うからこそ生まれるジレンマだと思うんですよね。

そういう意味も含めて改めて『自分は何の為に創作をするのか』ということを考え直してみることも必要なのかもしれません。


本来なら、ここで『その結論を前提として考える自分の幸せについて』という話題にして締めに入りたいところですが、残念ながらここから先は何も考えていませんw。
なぜそれが『死んではいけない理由』の答えになるのかという疑問や、『欲求としての器』について形や大きさは人生においてどんな意味があるのか?などの疑問点は多々あるのですが、それらもまだ思考中ということで浅い状態のまま書き捨てさせて頂きますw。

もしかしたら考えた結果『幸せになること』は全然本質的な答えではなかったという可能性も出てくるかもしれないし、あるいは私にとっては重要だけど、他の人には何の助けにもならない意味のない言葉である可能性もあるかと思います。(なんせ言葉自体は何の新鮮味もない使い古された言葉ですからw)

ただ、私にとっては多分この言葉を指針にしてこの先生きていくんだろうなーと思うんですよね。この先どんなことが待ち受けてるのか、それが良いことなのか大変なことなのか分かりませんが、何かを選択するとき、何かを諦める時、何かに迷った時、その時々で『人は幸せになることが生きる意味であり最終的な目標である』という答えが自分にとって揺らがない価値観として存在していく気がするのです。


まだ言葉足らずな気もするし全然理解できない内容だったらどうしようという心配もあったりしますけど、今年もあと少しとなり時間も差し迫ってまいりました。(ほぼリアルタイムで書いておりますw)

『なぜ創作するのか』ということや『なぜ生きなければいけないのか』という問いは、シンプルであるが故に常に自分を根本から揺り動かしてくる厄介な問いでもあります。(多分それは様々な場面で出てくる自分への問いも同じでしょう)

この気付きを発見したからといってそれらの問題が簡単に解決したりはしないし、劇的に楽になったりはしません。だけど少なくても『自分が進んでいる方向が正しいか』を測ることは出来るのかなとは思うんですよね。
そういうものに出会えたことは大きいなーと思い、不恰好ではありますが2022年中に書き残しておきたいなと思ったのでした。乱文、乱筆ですいませんw。

このnoteの内容はもしかしたら大量に捕捉して書き直すかもしれないし、(多分削除はしないと思うけど)この先は何も手をつけずに自分の手帳に書くだけで終わらすかもしれません。自分にとってはあまりにも大きい内容な気がするので。

もしかしたら命を絶ってしまったかもしれないnoteのあの人とか、それに伴い思う事なども書こうかと思いましたが、それもやめておきます。それらはこの内容を書く理由の一つにはなったかもしれませんが、別の話になってしまいますので。

ともあれ、今年も何やかんやあった気がしますが、相変わらずnoteを続けられて良かったです。また来年も続けられて楽しいことがいっぱいありますように。
皆さん仲良くして頂きありがとうございました。心からの感謝を。
そしてまた来年も仲良くして下さいな。

ではまた来年。良いお年を〜!

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