ADHDとか。〜その16 会話する〜
私はあんまり発達障害者にも精神疾患にも見られないことが多い。
そんな人はたくさんいるので、「だから何?」という話なんだけど、一時期要町のイベントバーエデンでバーテンをしたり、こういったADHDのことを書いているせいか、最近発達障害の人と関わることが増えた。
また、最近は発達障害の集いのような、コミュニティも増えて来ている。
同じ障害を持つ同士、共感し合いたいという気持ちはよくわかる。
発達障害とはいえど、その症状は色々だし、いろんなやり辛さを抱えているんだなぁと思うようになった。
そして、みんな一癖あるのはよくわかる。
それが全て障害のせいかはわからないけど、確かにコミュニケーションに難がある人が多いし、そういう人達と関わると、今度は自分のことを振り返るようになった。
自分には障害特性的なコミュニケーションの難があるんだろうか?それはある。でも、それはどういうとこだろう?かと。
ここ数ヶ月、自立神経失調状態が続き、不調から友人とのコミュニケーションがうまくいかず、疎遠になってしまった友人が何人かいる。
私自身はそのことがすごく悲しくて、悔しい想いだった。
自分自身の状態が悪かったとはいえ、去ってしまう友人に遣る瀬無い想いもあるし、しかし、同時に仕方ないという気持ちもある。
私は私の病気や障害を、他人に押し付けられる訳ではないから。
だから、治していくしかない、改善していくしかないな、と強く思った。
ここ数ヶ月は、セルトラリンという抑うつ症状用の薬を飲むようになった。
びっくりするほど元気になった訳ではないけど、前のような不安や妄想のようなものはなくなり、精神的に安定した。
薬って効くんだな、としみじみ思うのだった。
同時にまた「早く飲めば良かった」と後悔した。
精神的にも落ち着いてきたので、ここ数ヶ月の自分の状態を振り返る作業をしている。
そして、聞ける友人には、自分のコミュニケーションの問題点などを確認するようにしている。
もう少し自己肯定度が低いときは、そんなことをしたら、落ち込んで一日中寝込んだりしていたけど、最近はそういう指摘を、だいぶありのまま受け止めることが出来るようになってきた。
最近仲良くなった友人で、ものすごくフラットな感覚を持った人で、しかも発達障害者ともうまくやれてる稀有な人がいる。
その人にふと「私のコミュニケーションって発達障害っぽさありますか?」と聞いた。
パッと会った限りはわからないと思う、とのことだった。
ADHDはASD(アスペルガー症候群)とは違い、空気を読めないということは少ないと言われている。
むしろ読み過ぎる傾向にある。
ただ空気を読めてもそれに合わせられるかというと違う。
空気が読めてるのに、ズレたことを言って空回りすることは時々あって、空気が読めてる分あれは辛い。
友人は「断定的な物言いをしがちな傾向はあるけれど、他人の話をちゃんと聴けているので、発達障害っぽさは感じない」とのことだった。
実は、他人の話を聴く、というのは訓練したのだ。
昔、私はわりと人に嫌われがちだった。
特に男性は苦手意識もあり、あまり好かれなかった。
結構精神的にドン底まで落ちた時に、「なぜ自分は嫌われるのか?」をトコトン考えたことがある。
そして、どういう人が「好かれる」のかを考えた。
私は若い頃、とても斜に構えている人間だった。
高校生の頃は「気怠い」と言われたこともあった。それは良い評価だ。
中学生の頃は男の子にいじめられていたし、特に男性に嫌がられることが多かった。
思春期に男の子に好かれないなんて、そんな悲しい話はない。
私はそのことがコンプレックスだったけど、同時に「同年代の男の子に私のことがわかるわけがない」とどこかで思っていた。
前にも話したけど、私は本当に授業中に寝てばかりいる学生だった。
それは先日、高校の同級生に会ったときに「トモミって本当に寝てばかりいたよね~。でも気付いたら大学合格してるし~。」と言われたけど、私はそういう人間だったのだと思う。
同じ歳の男の子にとって、いささか嫌味な存在だったろう。
そして、若い頃の私はプライドだけは人一倍高かった。
でも、そのプライドは大学に行って粉々に砕け散った。
高校はランクを落として入ったものの、大学は上を目指して入ったので無理もなかった。
ましてや大学といえど美術の世界を追求するのは大変だった。
時には自己と向き合い、えぐられる想いをした。
そして、うちの大学の美術科(通称美研)は鬼のようなところで、新歓の時期と卒業の時期に学部の冊子を作った。
そこには毎回ランキングがあるのだが、それが大変エグく、「ミスター美研」「ミス美研」などのミスコンもあれば「苦手な人」だの「大学辞めそうな人」など、ネガティヴなランキングも多数あった。
私は2回生の頃、その「大学辞めそうな人」の3位に入っていた。
これはショックだった。
しかし、実際その頃、本当に大学を辞めたかった。
ゼミに行きたくもなかったし、人間関係もどん詰まっていた。
苦しい時期だった。
そのときに「なぜ自分は嫌われるのか?」をトコトン考えたのだった。
ノートに思いつく自分が嫌われる要素をとにかく書いたし、あまりに悩み過ぎて雑誌のananの人間関係特集の号まで買った。
そのananの特集の中でハッとしたのが「自分に自信がない人ほど他人に高圧的になる。弱い犬ほどよく吠える原理」という言葉だった。
私は自分への不安から今でいうマウンティングを知らず知らずのうちに他人にやっていたのだ。
そして、マウンティングをしたいがために「人の話を遮って自分の話をしている」ことに気付いた。
私はまず自分の至らなさを認めようと思った。
もはや、その頃の自分はどんなに格好つけようにも、格好なんてつかなかった。
作品もうまくいかなければ、学校にもロクにいけてなかった。
作品を並べられたらいつもドベだった。
才能がある人、真面目にやる人達の中で、いつも自己嫌悪になり、自己嫌悪から益々学校に行きたくなくなり、学校を辞めることや、最悪は死ぬことまで考えた。
でも、それが今の自分の実力だと素直に認めたら、ちょっとずつ楽になった。
虚勢を張らずに制作をしたら、少しずつ認められたし、制作も楽しくなってきた。
そして、虚勢張った自分を捨ててみたら、すっと他人の話が聴けるようになった。
そして、ちょっとおどけるような面もあったけど、まわりに少しだけ甘えられるようになった。
そこから、少しずつ人間関係がよくなった。
実力もないのにプライドが高くて、他人の話を遮って、マウントするような人間が好かれるわけもなかった。
それ以降ももちろん他人とぶつかることはあった。
でも、相手の話をまずは遮らず最後まで聞くことだけは心掛けた。
途中で反論したくなるのを、深呼吸してグッとこらえて、一通り聞いてから話すように心がけた。
それでも聞いて感情的になることはあるけど、その感情も素直に「今、こう言われたここに反応して、こういう感情になってしまった」と冷静に説明するように心がけた。
そうすると案外人は理解してくれた。
感情自体は自然なものでコントロール出来ないけれど、感情が起きた仕組みは伝えられるし、そのことで相手の話し方をコントロールすることは可能だと思う。
今はだいぶ人に好かれるようになったし、日常会話で問題になることは少なくなった(それでもまだまだ問題はあるけど)。
あとはみんなに好かれる人たちの観察もよくした。
みんなに好かれる人は、やっぱり素直だし、謙虚だし、気取らなかった。
最初は形からだったけど、そういう人の擬態をしていれば板についた。
面白いもので、擬態をしていると感覚的なものもだんだんとわかるようになる。
それは相手の反応が変わるのを感じるからであろう。
ASDの人にはやや難しいかもしれないが、自分がなりたい人を見つけて、真似をするのは大事なんじゃないかと思う。
人間関係も訓練だと思うし、生育環境のなかでの他人とのコミュニケーションの経験が少ないと、基盤が弱まりがちだけど、あとから伸ばすことは可能だと思う(でも、しんどいはしんどいわけですが)。
とりあえず今の自分はそこそこ人気者らしい。
「大学を辞めそうな人」第3位に入っても、そこで自己を見つめ直して改善すれば、それなりに他人に好かれる人になれるのだ。
発達障害は、困難なこともあるし、伸び悩むこと、人並みには伸ばせないことも沢山ある。
けど、訓練してあとから獲得出来ることもあると思う。
私もまだまだなことは沢山あるけれど、コミュニケーションにつまづく人達にそれを伝えられたら。
まずは目の前の人の話を落ち着いて聞いて、その人が何を伝えたいのか、ゆっくり見つめることが大事だなと思います。
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