秘剣・鬼返し
時は慶長17年4月。
豊後と長州の間に横たわる小瀬戸は不気味さを感じさせるほどの穏やかな海であった。
のちに関門海峡と呼ばれるこの場所で波に揺れる渡し舟が一艘。
船頭と侍の2人、荷らしきものは見当たらない。
侍は雪のように白い肌、眉目秀麗な顔立ちにすらりとした細身の体、それを豪奢な羽織と袴で包んでおり、無表情のまま、ただ舟の進行方向を見つめている。
「右だ」
侍が不意に口を開く。
「お侍様、今なんと?」
船頭は一瞬、その意図を把握しかね問い直そうとしたが、前方、靄の中から向かってくる別の舟に気付き、慌てて針路を右にとる。
侍の乗った舟よりふた回りほど大きな荷船だった。
その中央にうず高く何かが積まれていた。小山のように。無造作に。
「うっ」
小舟の船頭は嘔吐しそうになるのを必死に堪えた。
積まれていたのは人、それも十数人分の死体であったからだ。
そのどれもが頭を潰されていた。
赤い血、桃色の肉、それらに艶やかな黒髪がまとわりつき、おぞましく積みあがっていた。
「お、お侍様...あ…あれは何なんでごぜぇますか!!」
侍は答えない。
目を閉じ腕を組み、口を真一文字に結んだまま。
死体の山とすれ違う。
すぐに見えなくなる。
そして小舟は小さな島にたどり着く。
「お侍様」
船頭の声に侍が立ち上がる。
その右手に握られているのは長さ5尺(約1.5m)という長刀、いや野太刀と呼ぶのも憚られるようなひと振り。
その鞘には『備前長光・改』の銘。
「ご苦労だった」
舳先から浜の砂へと飛び降りる。
まるで燕が地に降り立つように、優雅に。
「お、お侍様、まさかあれをやったもんと果し合いをなさる気で?あんなんできるのは鬼でごぜえます!鬼しかござんせんよ!どうかお考え直しを!」
侍は船頭に背を向けたまま歩き出した。
(鬼か...そうかも知れぬな。だが、こたびは勝とう)
《続く》
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