他人に向けるには鋭すぎる
嗚呼、僕の中に偏見やら何やらがあるなあ、無配慮なことをしてしまったなあ、良くないなあ、と反省することはよくある。
たとえば仕事帰り、コンビニへ寄ろうとした時、中から体格の良い黒人が出てきた。
そんな時、一瞬、ビクッとなってしまう時がある。
すれ違ってから落ち込む。今の人、不快に思っただろうなって。
(恐らくは)異国で暮らしていて、何もしていないのに、黒人というだけで現地の日本人がビクビクする。なんて暮らしにくいんだ……とSNSで彼が嘆いてくる姿まで幻視してしまう。
そのまま、僕の頭の中では意見が紛糾する。「いや、黒人だからビビったっていうより、体格の良い人がでてきたからビビったわけで人種差別じゃないさ」「本当にそうか? ラグビーやってる奴とすれ違ったらビビるのか?」「そうだとしても体格差別だろ」「反射を抑えろって、どうしようもなくない?」「無意識の差別ほど傷つくものはない」――最終的には、どうにか、この”反射”を抑えていきたいな、と結論づけて自省する。
こういうことがよくある。
たとえば女性の先輩と、なんとなく恋バナになった時、「彼氏さんはどういう人なんですか?」と聞いたあとに「いや、先輩は付き合っている人がいるといっただけで、その恋人が男だとは一言も言っていない。彼女がレズビアンであるという可能性もあるじゃないか」と思ってしまったりする。
たとえば飲み会で後輩がビールを飲み終えたので、ビールを注いであげたあと、「後輩に『ビールもう一杯飲む?』と確認しなかったな……ビール、最初の一杯だけ我慢して飲むみたいなタイプだったら今のはアルハラまがいだよなあ」と考えてしまったりする。
自分の中の無意識での偏見や、"自然に"やってしまった行動を、よく反省する。
できる限り、誰かを傷つけたくはないなと思っているし、もっと正直に言えば誰かを平然と傷つけるような奴だなんて思われたくないと考えているから。
さて、本題だ。
ここ最近、無意識の差別とか、差別を内面化しているとか、そういう単語をネット記事であったり、論文であったり、ツイートであったりでよく見る。
上記の通り、僕の中にもそういうところがあるので、そういうのを見るたびに反省をしているのだけれど……ちょっと、引っかかることがある。
この手の言説の大体が、誰かを非難しているのだ。
この人のこの文章や絵は、表立ってはそういう風な表現ではないが、この部分とこの部分に作者の偏見がにじみ出ているだとか、一見この夫婦は上手くやれているように見えるが、それは片方が差別を内面化している名誉〇〇であるからであって本来は、とか。
ただの指摘で終わるんじゃなくて「それ故にこの人は差別主義者である。許してはならない」と糾弾に繋げていることも多い
それは、ちょっと違うんじゃないか? と思う。
この「無意識で偏見にのっとった言動をしていますよ」というの、他人に非難として向け始めたら、やばいぞ。
何故なら人間、多かれ少なかれ無意識で自然な偏見に基づいた行動をしているからだ。
それは、誰にでも刺さる無敵の武器であることを意味する。
それは、同時に誰にでも使えることも意味する。
たとえば、誰かがこの武器で刺される。
刺された方は反論不能の痛いところを突かれたからムカつく。しかし落ち込むことはない。糾弾している方だって、何かしらで偏見剥き出しの言動をしているに違いないのだ。
そうやって、刺された方が相手の痛いところを見つけて「おう、お前も差別者だ」と刺し返す。
やり返された方も同じ理屈と同じ経緯を辿り刺し返す。
すると、どうなるか。地獄が生まれる。
お互いがお互いを糾弾しあい、ただ分断が生まれるのみ。あいつはレイシストだ、いや、こいつがレイシストだで終わりで、お互いが反省することはない。穏便派が「とりあえず、こういう絵とか表にださないようにするね……」と議論を避けて表現を引っ込めたりする程度の成果があがる。
毎日、SNSで繰り広げられていることだ。
僕は、この概念は非難や糾弾に使うべきではないと思う。
何にもプラスになりはしないからだ。その鋭い刃は、両刃の剣だから。
自分に対してだけ使い、自省して、次へ繋げるだけにした方が良い。
他人に指摘する時だって、やんわりと言うにとどめるべきで、非難や糾弾には使わない方が良い。そもそも「あなたは差別主義者だ」という言葉は、強すぎる力を持っている言葉なんだからむやみやたらと使うものではないだろう。
その武器は無敵でも、自分自身は無敵じゃないのだ。
――この文章だって、至るところに偏見や意味が通らないところが沢山あるのだろうなあ。
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