マガジンのカバー画像

真実への目を開く

24
私たちが本当に真理を手にしたいと願う時、真実を見ることのできる心の訓練が必要になります。統合への道を進みたい人のための記事です。有料にすることも考えていますが、今のところ無料で公…
運営しているクリエイター

#愛

毒親を赦すことで起こること

親からの支配を受けて育った もう、感覚的には、遙かかなた昔のように思えて、鮮明には思い出せないのだけれど(事実、真理の視点から見るとそんな出来事ははじめから起こっていなかったのだけれど)、私は大好きな両親から精神的な虐待を受けていた。  時にはしつけと称して暴力的指導もあったし、日々行われる嫌みも横行していた。もともと薄かった親との愛着は、小学校2年生辺りで完全になくなり、そこからは、過度なしつけと、過干渉、支配とコントロール、抑圧、が主に親から受けるものだった。小さな頃か

分離の選択をする時、私たちはエゴのトリックにはまっている

様々な選択肢私たちはいつもさまざまな選択肢から何かを選んでいる。葛藤が起こる時は、必ず目の前に選択肢がある。選択肢が1つなら、物事はなんでもスムーズに運ぶけれど、そうはいかない事情が出てきたりする。 今晩の晩ご飯をラーメンにするか、カツ丼にするかという選択肢なら、深刻に考えず気分によって選んだり、明日はもう一方の選択肢を選んだりして納得することだってできるけれど、私たちが葛藤することは「こうしたい」・「でもそうできない自分がいる」とか「こうしたほうがいい」・「でもそうはでき

私たちに世界は変えられない

世界がより良くなるようにと願う心ずっと以前は、世界がもっとよくなるといいなと思っていた。もしも自分が、世界がよりよくなる一端を担えたりできるというなら、それは嬉しいことだと考えていた。戦争がなくなり、飢餓や暴力や貧困がなくなればいいと心から願っていた。差別や抑圧や搾取、孤立や自殺からいじめ、それから災害まで、世界にはなくなればいいと思うものがたくさんあった。 友人は世界をよりよくするために活動を長年続けている。署名運動をしたり、よりよくしてくれそうな政治家の活動を応援したり

あなたを罰してるのはあなた

罪悪感がすべての原因ずっとずっと昔。「【罪悪感】がすべての原因なんだよ」とある人から聞いたが、私はその後、他のさまざまな理論や原理について学んでいく機会を得ていたので、そのことにずっと注目し続けたりはしなかった。 だって、そうでしょう? 罪悪感? そりゃ良くないでしょうよ。罪悪感と聞いて、暗いイメージを持たない人なんていないだろうし、それが根源と言われたら、まあ誰だって、ちょっとくらい持っているだろうと簡単に想像できる。 だけど、今、私は思う。【罪悪感】こそがすべての原因

『ビューティフル・マインド』の中のエゴと愛

『ビューティフル・マインド』久しぶりに映画を見てたくさん泣いた。『ビューティフル・マインド』を久々に見たのだ。この映画は2001年の映画で、昔に確か観たことがあると思ったが、ストーリーを全然覚えていなかった。 あなたは『ビューティフル・マインド』を観たことがあるだろうか? 昔の映画なので、観た人が多い前提での話になっていて、観たことがない方はネタバレになるので、ご注意ください。 幻覚への恐怖と現実へのチューニングこの映画を観ているうちに、「私が長年恐れていたことは、これだ

愛を語ること

こそばゆい《愛》について科学の分野では、《生命体》という言葉は良くても、《魂》という言葉は使えないそうだ。その言葉を使った人の論文は一気に相手にされなくなるという。《愛》という言葉だって、きっと使えないのだろう。どんな分野にも共通言語があって、「この言葉はこういう意味だ」という前提を共有していると、話はスムーズに進む。その共通言語にどれを選ぶかは、自然に淘汰されるし、時代だったり、背景によっても違うけれど、でも、その分野ごとの特徴があるなあと思う。 私たちの中にある、《愛》

他人への扱い方は自分への扱い

他人への批判かつて、私は他人に厳しかった。対外的にはいい人を装っていたが、内心はシビアな感想をいつも持っていた。「それって、こうだからじゃないの?」「そんなこと言っても実際にはできないよね」「いい人に見られたいのね」「中身は子どもだなあ」「もっと考えないとね」。その人には決して言うことはなかったが、仲間と思われる人には「ここだけの話」と言って、愚痴ったりした。 「ここだけの話」をやめようと思ったある出来事きっかけは、ある人からの辛辣な連絡だった。仲良くしていた人から、唐突に

わらをもすがる経験をした人は真実に近い

ヘビーな人生を生きてきた人たち個人的な感覚なのだが、最近思うことがある。厳しい体験を経験した人とは、どうやら共通言語があることが多く、フォローが必要ない、ということだ。 今、私は《霊性や真実の前提ありき》の世界に生きている。世の中の一般の人が私と同じでないことは、長年にわたって、よ~~~く理解したつもりだ。昔と違って、どうやら真実の霊性について素直な感覚で興味を持っている人がグッと増えてきていることに、正直びっくりしているけれど、だからといって、その存在はまだまだ少数派だ。

私たちは意味のないものに価値を付けている

そのものには価値はない冷静に考えさえすれば、お金そのものに価値があるわけではないことを、私たちは理解している。経済が破綻したり、自分しかいない場所で生きる時、お金はただの紙切れになって、おしりを拭くくらいにしか役に立たない。 私たちがお金に価値があると思うのは、「価値がある」という夢をお金に付けているからだ。紙幣を手にしたら、私たちは、「これであれが買える」「この支払いに使える」「これであれが食べられる」という幻想を瞬時に夢見、その視点でお金の価値を見ている。 ダイヤモン