シン・エヴァンゲリオン劇場版:||に見た違和感とそれに対する納得について


ずっと心の隅に引っかかってたあの世界の結末を見届けるため、俺も例のやつを観てきた。TV版はリアルタイムではいきなり加持とミサトのアレにぶち当たって視聴を断念する羽目になり、その後も通して観たかどうかは怪しい。漫画版は最終巻とその他に一冊買ったくらい。しかし何だかんだ言って映画は全部追っていたエヴァンゲリオン、その最後の結末だ。

結論から言えば、個人的には2つの驚きと1つの違和感、そしてその違和感の原因への納得が残った。1つめの驚きは誰もが言っている通り、幾つかの謎を残して尚、みごと全てに決着がついていたことだった。漏れ聞こえてきた様々な感慨に関することも含め、すっきりと腹に落ちたのだから恐れ入る。

2つめは不覚にも(?)掘り下げられた碇ゲンドウに共感を覚えてしまったことだ。何しろ対人関係や人間観の変化が俺とほぼ同じ放物線を描いていたのだから。冷たく乾いた世界で孤独をものともせずクマムシのように生き、やがて陽だまりにたどり着き乾眠を解いてしまう。そのゲンドウは庵野監督の似姿だと言われているが、それは本当にそうなのだと思う。

だからこそ、俺はあの第3村の「優しい世界」に違和感を覚えたのだった。社会の中で人にまみれ、地に足をつけて責任を引き受け、厳しくも幸せな生活を営む大人たち。それを求めるべき普遍的な幸せであるかのように、フルスイングで描いている。何のためらいもなく言い切っているように見えたのだ。俺はここにたどり着いた、皆もどうかそうあれと。

しかしゲンドウのようなタイプの人間は、それが再現性のない奇跡だということがよく分かっているはずだ。平然と孤独に安住する人間の精神にとって、人間関係はコメではなくせいぜい嗜好品だ。なくても死にはしないし、むしろ多すぎれば有害だ。だから家族や友人の存在を幸福とイコールで結ぶような「幻想」やその押し付けがましさには、冷めた感情を持っている。少なくとも自分にとってはそうではないし、その幻想を信じたばかりに苦しんでいる寂しがり屋も知っているからだ。奇跡の出会いに救われても、それまでに観測したことのある「幸運な事例」が驚くべきことに自分にも起きたのだと認識するだけで、それを一般化するような形で世界観が覆ることもないだろう。

つまり、碇ゲンドウの来歴が庵野監督のそれと重なるならば、庵野監督自身があのユートピア描写に対して「んな訳ねえだろ」「一部の幸運な事例です」を最も理路整然と、それこそ何のためらいもなく投げつけられる人種のはずだ。そんな男があれを描いたのだ。おいおいマジか、と俺は思った。その種の「嘘臭さ」に最も敏感な類の人間が、そこをそんなバットスピードで振り抜くのかよ、と。

しかし、ゲンドウの如く妻に救われた庵野監督が無邪気に、或いはぬけぬけとあれを描写してのけたのか、と言うとそれは違うと思う。思い出してみよう、この物語はそもそも全てに納得のいく決着をつけるための物語。つまり目指すところはエヴァンゲリオンそれ自体をも含む、最大多数の最大成仏だ。

それは14年のブラックボックスを経ない、俺たちがよく知る彼らのままで出来ただろうか。「ためらい」を反映した決して優しくない世界、例えばまだ大変だった時期のあの村のような世界で、「まともな大人」に触れることもなく、14歳のまま打ちのめされたシンジが立ち直り前に進む姿を説得力をもって描けただろうか。それなしにあれほど多くの「俺たち」を成仏させることが出来ただろうか。

そう考えると、あれらは全て必要な舞台装置だったのだと思う。全て分かっていてやったのだ。「大変だった時期」に倒れていった人々や、スクリーンに映らない、あの村のどこかの片隅で、農作業が義務かつ配給制という厳しく煩わしい生活の中で磨耗しているに違いない誰かのように、救われない魂が相当数出るのも分かった上で。

そしてよく見ると、あの「優しい世界」は村の上澄みも上澄みだということが容易に想像できる描き方をしている。トウジもケンスケも村では特別な人間だ。お陰でシンジは農作業を免除され生のコミュニティから守られたし、仕事する気があるように見えないけったいな格好を続ける女の子にあれだけ優しい農家のおばちゃんも、「先生」の人選と計らいの賜物だろう。これは舞台装置の都合でもあるだろうが、そこに庵野監督の「ためらい」が忍ばされているようにも見える。

だから、一部の怨嗟の声を呼んだあれらの描写も、ああなってしまったのではなく、あれで良かったのだと思う。少なくとも庵野監督は碇シンジをやってのけた。全てが救われた訳ではないにしろ、見事に落とし前をつけてくれたのだから。

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