「カラ兄」マンガで予習復習♬ー100分de名著「カラマーゾフの兄弟」

12月2日からNHKの100分de名著という番組で「カラマーゾフの兄弟」が特集されます。番組を見るにあたっての予習復習を是非まんがで♬

テクストは講談社まんが学術文庫の「カラマーゾフの兄弟」です。原作はもちろん文豪と言えばこの人、ドストエフスキーさん。マンガを描いているのは岩下博美という人です。はい、僭越ながら私が描いたまんがでございます。

では早速、100分de名著「カラマーゾフの兄弟」第一回「過剰なる家族」になぞらえてカラマーゾフ家の人物紹介を見ていきましょう。

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こちらが「カラマーゾフの兄弟」に出てくるキャラクター一覧です。一見してお分かりいただける通りの個性派ぞろいです。一家にこれだけの個性派が揃えばどうなるのでしょう?…おそらく主張がぶつかり合いそうです…例えばサザエさん一家のようなほのぼのした毎日は送れなさそうな気が致します。
カラマーゾフ家のお父さんは、大人の落ち着きを持つ波平さんとはちょっと違い年の割に元気そうです。何より髪がフサフサしています。でも目つきは…元気というより何か狂気じみて見えます。このお父様から生まれてくるお子さんはどんな性格の持ち主なんでしょうか…不安になります…

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こちらは次男のイワン君です。
ああ…やっぱり何かこう…不穏な事を言っております。「不死がなければ善行もない」…つまりあれですか…「人は天国へ行きたいと願うから良い事を行うのだ」…そう言いたいのでしょうか。逆に言えば「天国がないとなれば人間は好き放題悪い事をするものだ」…非常に冷めた、人間の温かみを否定するような、シニカルな考えの持ち主ですね。
一方でちょっと、中二病が入ったセリフのようにも感じるのは私の歳のせいでしょうか…冷徹なようで何か非常にピュアな思いを胸に秘めているようにも感じられます。
やっぱりサザエさん家のカツオ君とはだいぶ違うようです。カツオ君ならこう言うでしょう「お小遣いがなければ善行もない…僕はこう思いますね」と。ああ…なんかカツオ君の方がシニカルで冷めてる人間のような気がしてきましたw

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こちらが長男のミーチャです。
本当はドミートリ―という名前なのですが「ミーチャ」という愛称で呼ばれています。お兄ちゃんだからミーチャ、ニーチャン=ミーチャ、ニーチャ=ミーチャ、ニーチャン=ミーチャン、チャンチャン♬
こうすると覚えやすいですね♬(かえって覚えにくい?)。
サザエさん家でいう所のサザエさんに当たります。性別の違いはありますが同じ第一子なのです。イワン・カツオの次男コンビと違って実はこちら性格も似ています。サザエさんが「お魚咥えた~裸足で駆けてく陽気な~」と歌われる陽キャラなようにミーチャン、いやミーチャも直情径行な、思ったらすぐ行動する「裸足で駆けてく系」の熱いキャラの人です。だから人の言葉もすぐ鵜呑みにしてしまいます。ですがさすが第一子長男。鵜呑みの上にオウム返しなのになぜかイワンより核心的な言葉のセレクトを無意識にしております。
皆さんご存じの通り「ヤバいのはカツオよりサザエ」なように「ヤバいのはイワンよりミーチャン」そんな皆さんの悪い予感は後に的中します…

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そしてこちらが三男坊のアリョーシャ(愛称)ことアレクセイ君。
御覧のように敬虔なクリスチャンです。親兄弟の不穏なメンツたちの今後を心配して神様に宜しくお願いしています。
ワカメです。第3子で末っ子。上の子二人の輩っぷりを反面教師に我が身を真面目に律しています。上の子二人の失敗を糧に自らの危機回避能力を磨くのが末っ子スキルです。ズルいっちゃズルい。私も次男の末っ子になるので彼の気持ちがよく分かるのですw
彼は僧院に入って神の使徒として修業の身です。自分の一家の親子の不和を案じて僧院に家族みんなを集めて和解の会議をすることを提案します。「カラマーゾフの兄弟は」そんな家族会議のシーンから物語が始まります。

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ところが、僧侶からのありがたい救済のお言葉を頂いたそのすぐ後にこの有様です。イワンもミーチャも結構アレでしたが、お父様のフョードルさんはもっとトンがってました(爆)。
自分の子供たちを激しく罵ったそのままのノリであろうことか僧侶たちの事も罵り始めます。大変アナーキーなお父様です。直後「裸足で駆けてく系」のミーチャの拳がさく裂するのも致し方ない、と言っては言いすぎでしょうか?

…といった感じの導入シーンが「場違いな会合(原作タイトル)」になります。

この導入で「ああ…この物語は家族の話なのね」という事がわかります。サザエ家とはずいぶん違うけれどもホームドラマであることは間違いありません。ところで皆さん「カラマーゾフの兄弟」にどんなイメージをお持ちでしょうか?

「ドストエフスキーってなんか暗そうだよね」

「難しそう」

「哲学?宗教?私達とあんま関係ない話っぽい」

…そんな風に思っている方に朗報です。
今見てきたように「カラマーゾフの兄弟」はホームドラマであり、実は結構身近なお話です。言ってみれば「ちょっとスパイス強めのサザエさん」と言っても過言ではありません。

そしてドストエフスキーさん、実はギャグが大好きです。気を付けて読んでいくと笑いのデパート並みにギャグ地雷があちこちに仕込んであります。だって宗教のお話でフョードル父さん(↑)みたいな人、フツー出しますw?菜食主義で神に寄り添おうとしている真面目な人に向かって「キャベツで神の心が買えると思っている!」とか皮肉利きすぎでしょ!!
フョードル父さんも父さんでなんだかんだとその場にいる人間から笑いを取ろうといつもおどけてふざけ続けているんですよね。
「ツッコミのいないお笑い劇場」と言ってもいいですw

そして最後になぜホームドラマなのか。

皆さんもハリウッド映画などでよく神様の事を「ファーザー(父)」と呼んでいるのを聞いたことがあると思います。キリスト教徒にとっての神は「父」と呼ばれるんですね。
そして人類は「兄弟」と呼ばれます。
これも良く映画などで友達の事を「ブラザー」と言ったりするのを聞いたことがあると思います。
神(父)の子である人類(兄弟)。
カラマーゾフの家族はそういう宗教的な意味がシンボライズされているのです。つまりフョードル父さんはイワン、ミーチャ、アリョーシャにとっての神を象徴していて、さらにこの三兄弟は人類愛を象徴しているわけです。

敬虔なアリョーシャはもちろんそういった意味からも家族を大切に思っています。そしてシニカルなイワンも実はあまり意識せずにその事を考えています。「不死がなければ善行もない」いや、ミーチャ風に言い換えれば「復活を信じない者には全てが許されている」。天国での復活を約束しているのは神です。じゃあ神がいなくなれば人間は真の自由を得ることができる?

イワンの考えを元にミーチャは思いを巡らせます。

神をいなくさせると言っても神なんかいないじゃん…いや…いた。
地上の本物の神である「父」が。
「そうだ…親父(フョードル)がいなくなれば俺達には遺産が手に入り同時に自由も手に入れられる…だが親父はまだ元気だ…どうしたらいなくなる…?」

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物語のファーストシーンである「場違いな会合」のクライマックスがこのシーンです。
まさに「裸足で駆けてく系」のミーチャが裸の心で思わず叫びます。その叫びはそのまま父の死を願うかのような言葉です。

つまり「父殺し」がこの作品のテーマです。

もちろん父殺しは「神殺し」の比喩ですが、この後実際に起きてしまう「父殺し」の事件を巡って、人間社会が抱える階級や差別、善意や悪意、神の存在する意味や、生きる意味など、私たち人間が日常を生きる上で何となく考えている事をドストエフスキーによる、深い洞察の上に造形された人間のドラマを見ることでまざまざと人間の本質を見せつけられます。

父殺しの意味するところはまず事実としての父殺しです。三兄弟にとっての父、フョードルの死を意味します。そしてそれは神の死も意味するわけですが、なぜ「父の死=神の死」という意味の結びつきがされるのかというとそこにはキリスト教の始まりである「キリストの死」があります。
カラマーゾフのエピグラフ(物語全体を象徴する詩文)には新約聖書の「一粒の麦」が掲げられています。その詩はこんな内容です。

「あなた方によくよく言っておく。一粒の麦が死ななければそれは一粒の麦のままであるが、ひとたびそれが死ねばやがて豊饒な実を結ぶ」

キリストが弟子たちに語る言葉です。一粒の麦が死ぬーというのは麦がその生命を終え、種となり土にかえることを意味します。そして種となった麦はより多くの生命を産むーという事です。麦はもちろんパンの原料ですからやがて大衆の命の源にもなる…だから何かが失われる事を単なるマイナスと捉えてはならない。そういう暗喩の詩です。
そしてみなさんご存じのようにイエス・キリストは反逆罪に問われ架刑に処されます。イエスが架刑によって死ななかったとしたらどうでしょう?普段あまり意識されていない事ですが、イエスはユダヤ教徒です。自身で新しい宗教を興そうとしていたわけではありません。キリストが処刑されていなければキリスト教自体生まれていなかったでしょう。
カトリックもプロテスタントもモルモン教もキリストの死によって生まれたのです。

ドストエフスキーが「カラマーゾフの兄弟」のエピグラフに一粒の麦を選んだ本当の理由はここにあります。小説の中では後にゾシマ長老というアリョーシャのお師匠さんがこの詩とその意味について詳細に語ります。つまり「父の死=キリストの死=神の死」という意味のつながりです。

単純に「父を殺せば自由になれる」というだけの話ではないという事です。そこには父(神)への憎悪と感謝と、乗り越えるべき使命と乗り越えられない業があるという事です。これは宗教の話であって宗教の話ではないのです。人間、家族、社会、国家が抱える普遍的な矛盾・不条理をテーマにした物語なのです。

不穏な家族会議から開幕する「カラマーゾフの兄弟」はここからどんどん加速、カラマーゾフ家以外の人間たちを巻き込みながら、人間の本当の姿とは?神とは?という人類史上究極のテーマに鋭く切り込んでいきます。

まんがならまさに100分くらいで読み終わります!!
ご興味ある方はこちらでお願いします!!

では、また来週~♬

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