530日前のこと
「そんなことして何になるの?!」
テーブルをひっくり返しそうになった、
スイスホテルのカフェラウンジ。
Sさんがあまりに真剣だったから、
冒頭のセリフは声に出していない。
最後まで話を聞いて私の体は硬直した。
なぜか頭の中は10メートルはある高い天井の一番上から、
4人でテーブルを囲む様子を想像している。
「すごい方法があるんです」
そんな風に始めたSさん。
「本当に人生が変わります」
「いいことがどんどん起こるようになるんですよ」
ウィークデーの午後。もうすぐおやつの時間。
吹き抜けのガラス窓から太陽の光が差し込んでいる。
一つ置いた向こう側のテーブルでは、
40代から50代の男女が3名、真ん中にパソコンを置いて額を付き合わせて、
話をしている。
1時間前に飲み始めたカフェラテは、すっかり白いカップの底が見えている。
次のオーダーをしようか、先にトイレに行こうか迷っていたところに、
その話が始まった。
「あのね、数えるんですよ毎日」
「その日あったいいことをね、10コ」
Sさん、あのね、
私さ、
毎日10コもいいことないのよ。
やなことだったら有り余るほどあるんだけどね。
「そんなに難しく考える必要ないんですよ。
もっと軽い感じです。
例えば、
こうして今日僕と会えたじゃないですか、これで1、
Nくんとも会えたから2、Mちゃんと会えたから3。」
「ね? かんたんでしょ?」
確かにとてもかんたんではある。
そして、
冒頭の私の心の声に戻る。
そんなことをして何になるの
でも真剣な顔でこちらを見つめるSさんにそれは言えなかった。
それは以前行われた不幸自慢大会で大敗したからである。
もちろんそんな名前の大会があった訳ではない。
お互いに抱えている問題の情報交換をしたに過ぎない。
当時はとにかく眠れなくて、
過呼吸もひどかった。
これ以上の不幸はないぜ!くらいに
思っていたのかもしれない。
しかしSさんはもっと大きなものと闘っていた。
人は大きな問題を抱えている人をみると、
リスペクトする生き物かもしれない。
それはともかく、
いくら不幸自慢大会の敗者とは言え、
Sさんの「人生かわるよ」に、
心の中で何かがでた。
おやおや、これがヘドってものかしら。
ひょっとしたら、ここがSさんと私との違いかもしれないな。
そんなことも考える。
現状から何とか抜け出したいと思いながらも
もう希望を持つなんてうんざりだ。
それに向かって何かをすることも。
なんていう心の声が聞こえてきた。
メモを取る程度のことなら、やってみてもいいかもしれない。
ただ、
Sさんと次に会う予定はないし、
共通のコミュニティはどちらも抜けてしまったし、
やったとしてもすぐに忘れ去って多分1ヶ月も立てば、
私の脳内には何も残っていないだろう。
やってみると答えて別れたら
この場はひとまず盛り上がったカタチになる。
そうして納まりをつけようかと居住まいを正した私に、
間髪を入れずSさんのコトバが飛んだ。
「報告をしてください」
「1週間後と1ヶ月後に」
寝る前に、メモアプリに日付を入れて、
10コ書き出す。
10コもないことの方が多かった。
1週間経った時、
「これはひょっとして、
脳のコトバの変換作業かもしれない」と、
気がついた。
寝る前にもできなかった。
次の日の朝に電車で移動しながらメモをする。
そんな時は、
「寝る前は忘れていたが朝に気づいてメモることができた!」と
一つ数えるのを忘れない。
仕事関係の人と言い合いになった→熱く意見交換できた
100しかできなかった→100できた
うまくすすまなかった→少し進んでプラン変更に気がついた
30日が経った時、過呼吸が収まっていた。
60日、夜もゆっくり眠れるようになった。
10コ書くというそれ自体はそれほど難しくなかった。
最初の頃は、
「電車が時間通りに来た!」というムリヤリな1コもあった。
忘れて寝ちゃった時や、
2日連続で忘れちゃった時には、
少し凹んだ。
凹んだ自分にどう対応するかで、
その先が決まる。
すかさずこうだ。
2日も忘れてしまったけど思い出すことができた。
凹みそうになったけどすぐに切り替えられた。
書こうと思うことができた。
ブログを書いている人たちはみんな、
毎日ランニングを続けていたり、
それはそれですごくかっこいい。
私が最初に始めたのは、
この程度のことだ。
あれから1年以上が経った今、
何かを始める時に、
続くのかどうかなんて考えなくなった。
やってみなければわからないから。
挑戦するなら今日しかない。