猫目じじいが俺に教えてくれたこと(前編)
小学校の通学路は、俺たちにとって最高の大人観察だった。登下校にあって、毎日同じ場所、同じ時間に、同じ人たちとすれ違う。大人というものは、自分たちが思っているほど平凡ではない。誰も彼もが、子供の目からすると個性的である。品性や行儀をわきまえぬクソガキであるからして、今思えば、ありえないほどに非礼で不名誉なあだ名をコッソリつけまくっていたものだ。
一部を列記しよう。「ブルドッグばばあ」「ハングリーさん」「おフランスおばさん(のちに「ザーマス」に変化)」「インベーダーおやじ」「親分」「リヤカーじいさん」「クイーン大根足」「モーレツパーマ」などなどなど……。彼らの大部分はおそらく普通の大人で、子供ながらの極端なデフォルメをかけた結果、こうした不名誉なあだ名をつけられていたのだが、一人、近所でも有名な、正真正銘の変人がいた。
今日は、「猫目じじい」について書きたい。
彼は子供だから思う「ヤバイ変人」ではなく、大人から見ても正真正銘ヤバイ変人だった。だが、猫目じじいと呼ばれたかの人物が、今の俺に与えた影響は大きい。正直むちゃくちゃでかい。
父母、校長先生、ナベさん、モケイラッキーの店長と吉橋さん、高峰治氏など、ハーミット・カウンシルでは事あるごとに、俺に教えを授けてくれた数多くの大人たちの話をしているし、これからもしていくだろう。
正直な話をすると、猫目じじいについて書くかどうかは、ちょっと悩んだ。でも、やはり書こうと決めて今書いている。
猫目じじい……彼が俺に教えてくれたことは、他の大人たちとは全く別種の、しかし本当に大切なことだったからだ。そして、俺が彼について書くことで、彼が俺に教えてくれたことを君にも知ってもらえたら、彼も喜んでくれるんじゃないかと思う。
長くなるので分けて話すよ。今日は前編。続きはまた今度だ。
***
猫目じじいは、子供たちの間だけでなく、町内でも有名な変人だった。晴れている午後になると、猫目じじいは、彼の家の前にある歩道(そこは歩道と横丁の結節点で、いわば公道と私有地の境界線だった)に立ち、通行人を“監視”していたからだ。実際、彼は監視していたのではないのだけど、当時の俺も含め、人々は「道ゆく人々を監視している頭のおかしい人」と、そう考えていた。
猫目じじいは、無論俺のいたクラスでも危険人物とされており、「目が合うと呪われる」「人を食う」「夜になると猫に化ける」と言った風説がまことしやかに囁かれていた。子供がそう思っても仕方ないくらい、不気味な人物だった。
猫目じじいは、小柄で痩せていて、不精ひげを生やしていて、牛乳瓶の底よりも厚いメガネをかけていた。メガネのせいで目が異様に大きく見え、色素の薄い瞳は、まるで猫のそれを思わせた。曇ったメガネの奥に二つの目が並び、ぎょろぎょろぐるりと動き回っているのである。それゆえに「猫目じじい」というあだ名を、俺たちから進呈したわけだ。
ベルトには手ぬぐいが結びつけられていて、それでしょっちゅう手をゴシゴシ拭いていた。ズボンは灰色か茶色で、シャツは白かストライプ。たまに履いている靴の色が左右で違っていた。そして大抵、緑か赤のベレー帽を被り、パイプをいつも咥えていた。タバコの葉を詰めて、火をつけて吸う、あのパイプだ。
猫目じじいの家は、国道ぞいの歩道をそれた横丁の奥にあり、そこを通る時、子供も大人も決まって小走りであった。だが、俺は小学2年生の秋、そこで立ち止まる事になる。
その日は晴れていて暖かったが、時折吹く風はどこか秋めいていて、少し冷たかった。俺は授業が終わり、ランドセルを背負って帰る途中だった。そしてその日に見た猫目じじいは、いつものようにそこを通る人々を“監視”していなかった。
代わりに彼は、小さな折りたたみ椅子に腰掛け、絵の具を木切れの上に出し、変な枠みたいなのに立てかけた板に筆を擦りつけていたのだ。それは、クレヨンでもなく、水彩絵の具とも違うやつで、何か不思議な光景だった。風にのって、今までかいだことのない、不思議な匂いが猫目じじいからしてきた。
俺は、他の通行人が足早に通り過ぎてゆく中、少し遠くで立ち止まり、猫目じじいの姿を見ていた。やがて猫目じじいは手を止めて頭をあげると、少しイラついた様子で俺に声をかけてきたのだ。その時のやりとりを、俺は一生忘れない。
「ぼっちゃん、わるいけど、どいてくれ。今ぼくは絵をかいていて、きみがいると、けしきが見えないんだよ」
「おじさん、じゃまして、ごめんなさい。こくどうを通る車とか、お家やお店の絵をかいているの? ぼくも、絵がすきです」
俺は素直に謝り、猫目じじいの描いている絵について尋ねた。理由は、絵を見たかったからだ。
「ぼっちゃん、それなら、見せてあげよう。こっちへ来てごらん。でも、これはアブラ絵のぐだから、あんまり近くにくると、からだに悪いよ」
アラブ絵の具! 俺はこの時確かに聞き間違えた。そして同時に、アラビヤの王子がラクダに乗って、宮殿の絵を描いている様を想像した。そして俺が、どんどん強くなるあの匂いを我慢しながら、猫目じじいの背中へと回った時、俺は驚いてションベンをちびりそうになった。
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