駆逐戦車ロンメルとパクトラタミヤの匂い
父は多趣味で釣りやらスキーやら色々やっていたが、一時期プラモも作っていた。俺が幼稚園から小学校低学年くらいの頃だ。数年で辞めてしまったが、父なりに、俺を喜ばせたくてやっていたようである。
父は何個もプラモを仕上げていたが、俺が覚えている最初の戦車は、リモコンで動く駆逐戦車ロンメルだ。今風に言うと、田宮模型1/35ヤークトパンターのモーターライズ版である。有線で繋がるコントローラーには二つのレバーがあり、左右の転輪がそれぞれ前進・停止・後進の切り替えで動かせた。両方を前進させれば前へ進み、両方を後進させればバックし、片側を前進させてもう片方を後進させると、その場で旋回するわけである。
父が書斎のデスクに座り、特徴的なロンメルの車体に迷彩を施しているのを見上げていたあの夜を、俺は今でも鮮明に思い出す。パクトラタミヤというエナメル塗料で、ガラスの本体に金属製のフタが付いていた。エナメル系特有のあの匂い…俺は高校の時に有機溶剤がダメになり、ちょっと嗅ぐだけで吐き気を催すようになってしまったが、あの匂いだけはいい意味で忘れられない。そう、臭いではなく、匂いなのだ(俺が最初に作ったガンプラは1/60 量産型ザクだが、塗装は父のパクトラタミヤを借りた)。
デカールが貼られ、砲塔ハッチに車長がおさまった時、父は満足そうにそれを見ながらタバコを吸っていた。このカッコいい戦車が何か教えてくれとせがむと、父は、幼稚園児であった俺のために言葉を噛み砕きつつ、ロンメルことヤークトパンターがどれだけ強かったかを教えてくれた。独特の形状の秘密。砲塔がない理由。戦車と自走砲の違い。投入された戦線と配備など。戦争末期にあっては、交戦で喪失するよりも燃料不足や修理資材不足から遺棄されるケースが多かったことも。父はそういう男なのだ。「まだ早い」とか言わず、聞いたらちゃんと必要なだけ教えてくれる父親だったのだ。
リモコン動作の披露があったのは、翌日の晩だ。家族で夕食を済ませると父はリビングのコタツの上にロンメルを置き、駆逐戦車を動かして見せてくれたのだ。モーターが唸り、ギアがきしみながら前進、旋回、転進するロンメルの姿…母と妹は「へーすごいね」くらいであったが、俺は大コーフンしながら眺めた。
あの場所がコタツのテーブルではなく床であったなら、おそらく俺の人生は今とは随分変わっていただろう。コタツのテーブルは、幼稚園児が何気なくヒジをつくだけで、1/35スケールの兵士が持つ目線の高さになった。上から見下ろしたのでは絶対に味わえない臨場感を、俺は初めて知ったのである。
コタツのテーブルという西部戦線で、ドイツ国防軍の駆逐戦車ロンメルはコップの森を颯爽と駆け抜け、ミカンカゴの家屋を遮蔽に取りつつ、灰皿のバリケードで車体側面を守りながら射撃態勢を整えていた。名高き88mm砲の照準には、憎き連合軍のヘナチョコ機甲部隊がしっかりと捉えられていたに違いあるまい。ギャリギャリと音を立てて進撃する駆逐戦車ロンメルの勇姿…それは幼い俺にとって衝撃そのものだった。これは…すごい世界だ!
俺はその日から、床ではなくテーブルの上でミニカーやレゴで遊ぶようになった。どうしても床で遊ぶ時には、ほっぺたを床につけて、なるべく目線を下げるようにした。そうすることでよりリアルに感じられたからだ。ティッシュ箱をビルに見立てたり、積み上げた本で壁や丘を作ったりするようにもなった(まだキットを買ったり自作したりはできなかったのである)。
俺にとって「ミニチュアの視線で見る」ことの原点がここだ。固定ポーズのミニチュアは動かないし、動けない…だが、俺の目には、彼らが躍動する姿がありありと浮かぶ。それこそが想像力のなせる技であり、俺がミニチュアに感じる魅力の一つなのだ。
その後父は、俺のためにプレイジオラマを作ってくれた。分厚い発泡スチロールの板をベースに、トイレットペーパーとノリを煮立てて作った紙粘土ペーストで作った土塁の陣地を配し、検問所を置いた前線基地のジオラマだ。そして父は、ドイツ歩兵アタックグループを一箱分仕上げ、合わせて俺にくれた。これが俺が所有した初めての1/72ジオラマである。
父はその後も1/35と1/72でいくつかキットを作っていたが、俺が小学生になり、自分で実際にプラモやミニチュアをやるようになると、父はあっさりとプラモを辞め、持っていたものを全部俺にくれた。そして俺がわからないことや相談事があると、父が色々と助言してもくれた。その意味で、俺はスタート地点にものすごく恵まれていたと言えるだろう。
小学2年の時だ。父が以前買っていて俺にくれたタミヤの1/35タイガーI重戦車を作りたくなったが、転輪がどうしても組めずにベソベソ泣いたことがある。とにかく難しいし、接着剤がはみ出すし、生乾きのまま触るから表面がどんどん汚くなり、塗装も剥げていく。1/72ならこんな大変じゃない。ガンプラならもっと簡単だし、メタルミニチュアは組み立てがほとんどない。ゾイドは接着剤がいらない。でもタミヤの1/35は大変だ…俺には早すぎたのか…俺は父に助けを求めた。代わりにやってもらおうと思ったのだ。
だが父は代わりにやってはくれなかった。「キャタピラの固定に火を使うから、そこは庸爾が大きくなるまで、パパが手伝ってやる。でも転輪は自分で組むんだ。説明書を何度も見て、パーツの形を確認し、組む順番を守れば必ずできる。諦めて投げ出すな。お前の投げ出したタイガーを、誰も拾いはしないぞ。始めた以上は責任を持て。本気で遊べ」と言った。
俺は、何度も何度もやり直して、顔は涙でグチャグチャ、転輪もグチャグチャだったがなんとか組み上げた。転輪はもとより、装備品や砲塔の出来栄えもイカンともしがたかったが、父がキャタピラを取り付け、ライターで炙ったドライバーを押し当てて固定してくれた時、達成感で歓声をあげたことを今でも覚えている。父はタイガー重戦車を通して、失敗を繰り返すことで成功に繋がること、ちゃんと自分でやり抜くことが大切だということ、手をつけることによって発生する責任の存在、そして、本気で遊ぶことの重要性を教えてくれたのである。
思えば、ロボダッチや水性ホビーカラー、タミヤアクリル、筆や塗料皿、メタルミニチュア、D&D赤箱を最初に買ってくれたのも父だ。
よくエッセイで書いているように、俺は子供の頃たくさんの大人に薫陶を受けてきた。中でもやはり父の影響は取り立てて大きい。母に言わせれば、俺は悪いところまで父にそっくりだという。えっ悪いところも似てますか…それいやなんだけど…。
最近、父も気弱になった。俺の顔を見るたびに、何かと「ありがとうな」と言う。その度に俺は「父さん、それは俺が言いたいことだよ。ありがとう」と伝えるようにしている。気配りで言っているのではない。本心だ。
父と母の間に生まれて、本当によかった。俺も子供たちにそう思ってもらえるよう、俺も俺で頑張っている。実際にできてるかはわからん。答え合わせができる日は、まだ先のことだろう!
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