聖書は語る
クリスチャンになって、何度聖書の同じ個所を読んでも、毎回新たな氣づきがあります。見逃していたことや、あれ、こんなんだったっけ?と、おそらく人間としての認知の歪みで、見落としていることがたくさんあるのだと思います。あるいは、読むたびに、心に響く箇所が違ったり、心に引っかかる個所が異なったり、抱く疑問が異なったり・・・
聖書とは、つくづく不思議な書物です。まさに、私にとっては生きていると言えます。同じ聖書の箇所でも、異なる説教があるのも、そんな理由でしょう。聖書の読み方も、さまざまですから、私としては面白くて、聖書研究を止められません。文脈や背景などは関係なく、その時の自分に響く御言葉から黙想するのも、一つの読み方です。私がデボーションでやるのは、これです。
聖書研究では、書かれた時代、背景、なぜその記事が書かれたのか、作者は誰なのか、文体はなどなども念頭に読みます。例えば、ルカ福音書であれば、全体像を把握しつつ、前後の文脈をもふまえて、放蕩息子の話を理解していく、というような感じでしょうか。
これは史実か否か。イエスが言った言葉か否か。という読み方もあるでしょう。
私は、聖書全体を神の壮大な計画の物語として読むのが好きです。その物語は、昔話ではなく、確かに現代の私たちにも生きていて、メッセージを語りかけています。物語というと、日本語では、作り話、フィクションと捉えられてしまうことがありますが、そうではありません。神と民との信仰を介した関係について書かれたものです。イスラエルの民から人類の歴史に、神が介在したという話です。そして、今なお、神は私たちの人生に、歴史に介在している。神の招きに、民がどのように応答したのか。その応答が誤ったこともありました。誤りに氣づかせてくれる者もいました。誤りに氣づいて、軌道修正したこともありました。様々な人物が登場します。それらの人物は、私がその時その時で、自分に重ねて神の言葉を聞くのを助けてくれます。聖書の話の中に自分を重ねて読むのも、一つの読み方です。そのようにして、イエスと対話したり、神と対話したりもします。
詩編は祈りのお手本です。神への賛美、人間としての感情、神への信頼、神の御業の振り返り、などなど、人間味あふれています。
聖書は、良いことばかりが書かれているのではありません。神に背いて、道を踏み外した先人たちの話も、赤裸々に描かれています。そこから、同じ人間としての弱さ、罪、誘惑などに向き合うことができます。
北米の神学校時代、ギリシャ語やヨハネの手紙を教えていた教授の家の地下室に、間借りをしていた友人が、早朝にキッチンに行くと、その退職した教授(おばあちゃん)が、キッチンの床に座って、朝日を浴びてギリシャ語聖書を読んでいたそうです。私も、最後までそんな風に聖書を読んでいるおばあちゃんになりたいなぁ、と一人で思っています。
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