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愛するために生まれた

私たちは
愛するために生まれた。

愛されることで
愛を知ると言われるけれど
完全な愛を持って愛することのできる人は
いないと思うので
歪んだ「愛」を
愛と勘違いして
育ってしまうこともあると思う。

「神は愛なり」
多くの人が知る
聖書の言葉だと思う。

自分が神に愛されている感覚が
私にとっての
「愛されている」ということ。

私の父も母も
私を愛してくれたけれど
それは
神が愛するように
愛していなかった部分が
多々あると今ならわかる。

来年は60歳ということで
私なりに
人生を振り返っているのだけれど

幼い時に読んだ
芥川龍之介の「杜子春」が
好きだったこと。

大学生の時に
「愛するということ」を読んで
考えさせられたこと。

人間関係において
常に頭を悩ませていたのは
「愛している」か
「愛されているか」
だったこと。

思えば
ずーっと私は
「愛する」ということと
「愛される」ということ

痛みを覚え、悩み、考え、
生きてきたように思うし

今もそうで
これからも
ずーっとそうなのだろうな
と思う。

この世でのいのちが終わるまで
神のように
イエスのように
自分が他者を愛することを
学び続けるのだと思う。

より
神が愛するように愛することで
神の愛が私の接する人々に
伝わるのではないだろうか

そんな希望を抱きながら
コツコツ生きている。

世界中のすべての人が
真に愛することができるようになれば

戦争、殺し合いは
なくなるのではないだろうか
と思う。

キリスト教は
「隣人愛」と言われるけれど
いやいや
「敵をも愛せよ」
とイエスは言っている。

意見の違い
揉め事
問題は
なくならないと思うけれど

愛することを身につけることができれば
いのちを奪うことはないと思う。

思う、としか言えないのは
自分がまだまだ
愛することができるようになる途上で
未熟だから
なのだと思う 笑

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