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平安があるように

先週のオンライン聖書を読む会は
ヨハネ福音書20章19節〜31節を読んで
分かち合いをしました。

ちなみに
分かち合いの仕方は
"サークルプロセス"の手法を取り入れてます。

1人ずつ順番に
まず
「今の自分に響いた箇所」
「今の自分に引っかかる箇所」
あるいは
「わからないところ」や「疑問」
を分かち合います。

パスしても構いません。
一周すると次は
「自分以外の方々の話を聞いて思ったこと、
氣づいたこと」
あるいは
「新たに氣づいたこと」
などをまた順番に分かち合います。

2週目が終わったら
3週目…

とひたすら順番に分かち合います。

1人の人が話しているとき
他の人には話す権利はありません。
話が終わるまで聞いています。

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さてヨハネ福音書に戻ります。

「鍵をかけていたところにイエスが来て
真ん中に立ち、平安があるように」
という同じ状況が2回書かれている」

「罪と赦しの話がなんでここにあるんだろう⁈」

「聖霊を受けなさいって、これペンテコステだ」

「イエスさまのトマスへの対応から、イエスさまは
その人その人にふさわしい事細かな接し方をして下さる」

「鍵をかけていてもいいんだ」

「赦しは本当に難しいと思う」

「トマスはここで信仰告白をしている」

「息を吹きかけてって、創世記を思い出す。ここでは新たないのち、聖霊が与えられた」

「見ないで信じる人たちは幸いである、って
後々の人たちへの祝福」

「ここでは、イエスは、赦しなさい、とは言っていない。あなた方が赦すなら、その人の罪は赦されるし、赦さずに残すなら、残ります、と言っているだけ。どうするかは、私たち次第。私たちの判断」

などなど

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