日記のメモ書き2022/08/08

時を超えた兄弟の対話 ―ヒロシマを描き続けた四國五郎と死の床でつづった直登の日記―

原爆死没者追悼記念館の企画展のためにつくられた映像をみる。
怒りや無念さや痛みや。語り手の表現がまた迫らせるものがある
ぐっと引き込まれてみていた

怒り
どうあつかっていいのか。じぶんのものとしては、

原爆展の冊子を引き続き読む、頭から読むのではなく、引き抜き拾いながら行ったり来たりして読んでいる。いずれすべてを読む必要があると思いながら入り込むことが出来ない。文字を追うだけでは意味がない。
読み続けることしんどいと思う。

『原子雲の下で』に収録されている詩をいくつか、声に出してよむ。からだを通したとき、こうよみたいとおもう、ことばにのっていく、ひきだされていく、想起させられるものがある。
それは、情景を思い描くこととは違って、自分がこの詩をよんだひととしてからだにかんじることをつかむということのような気がする

『少女たちの戦争』戦争をしている日常が、戦地で死んだ、爆弾で死んだ家族がいること、食べること、学ぶこと、笑うこと日常は彼女たちにとってどうだったか、どう映っていたか

そもそもなぜ、伝承・継承するのか。制作のためではなく、卒論のためではなく、一番最初にあるのは、ひいばあちゃんが語ったことを、経験したことをこのまま埋もれさせてはいけないという想い。
家に閉じ込めるのはちがう、ひらかなくては。という想い。
そこを基にして、どう誰に渡すか

もう次がありませんようにということの先が、核廃絶だということ。
ちゃんと勉強する必要がある。べつのこと、伝承とは別のことだということはできない。

曾祖母や祖父を「ヒバクシャ」としてとりわけ扱うことに戸惑いがある。ひとりとしての人間としての彼らがあって、彼らをヒバクシャの側面からばかりみるのは不誠実だと思う。
彼らが経験した(させられた)被ばくのことは風化させてはいけない。だからこそ、ひとりひとりとして受け取ろうとしなくてはいけない

今のウクライナとロシアのあいだの戦争、それに関わる世界各国の態度、そういうことに対して鈍感すぎると思う、しかしどのニュースをみたらいいのか、、みたいなところもある
だからといってうだうだして良い問題ではない


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