空気になる

 関わるということに対して常に消極的で、自分の存在を場から引き算することが得意だった。それは、相手の自由を尊重することでもあり、わたしなりの思いやりというつもりでもあった。

 哲学者 永井玲衣さんのエッセイの一部。
水中の哲学者たち 第12回 祈る

 私のことじゃないか、と思った。
口をつぐみ、飲み込む。そしてにこりとしておけば、害はない。
邪魔にならないように、
みんなの望んでいる空気を壊さないように、
空気になる。

 自分を主張しないことは、相手の意見を尊重して採用することにつながる。相手を尊重したいのにうっかり自分の意見が採用されたときの後ろめたさといったらないから。
 話に入らずただ聞いていることは、流れを断ち切ったり曲げたりしないために大事。そもそも喋るのが得意でないし、楽しい会話も冗談も私のものではない。場のチューニングを整えようとはするけれど。

とにかく、邪魔にならないように気を付けて。
不自由のないように整えて。
という姿勢でたいていやっているから、言葉足らずの勘違いもたくさん。

でも、

「自由の尊重と、無責任な放棄は違うんじゃないですか」

 わたしは、自分の心臓をぐっと握られたような気がしてたじろいだ。自分の生き方を指摘されているような気がして、どくどくと血流が動くのを感じた。

 「無責任な放棄じゃないのか」「ただの自分の都合の諦めじゃないのか」
私にも響く声。
内側から響いてくる声。

 関わるということには、差し出すというのと、その差し出されたのを受け取るというのがあると思う。もちろんパッキリと二分できるものではないし、同時に起こったり、時間がたって逆転していたと気づいたり。
まぁでも差し出す、受け取るという風に言ったときに、どちらにも身の置き所のなさをいつも経験している。

邪魔にならないためには、他者の思い描いているものと乖離のないようにすることが必要だ。同時に、あわよくばプラスの効果をもたらすことも私は求めてしまう。
役に立たないなら、邪魔になってしまうんじゃないかと恐れているから。

働かないアリは要らないと言われるのだと思っている。
でもきっと論点はそこではなくて、
心地よい関わりはきっと別の部分にもかかっているんだろう。

何が書きたかったのかわからなくなってしまったけれど。

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