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2024/07講話

私たちはどうも、傷つくことをあまりにも当たり前に受け入れ続けてきたようです。でも、本当にそれは事実なのでしょうか?
確かに、身体は脆く、すぐに傷つき、そして崩壊していきます。ですから一番大切なことは、「私は身体なのだろうか?」と確認することではないでしょうか?

私たちが人として生きていて、いつも問題として頭を抱えることは、全て身体に関連することなのです。お金、食料、衣服や住居、そのためかどうかはわかりませんが、仕事、人間関係でさえ。
なぜ、人間関係でさえ、身体に関連していると言えるのでしょう? 人間関係は精神的な関係であるはずです。もちろん、確かに、そうです。けれども、私たちの会話の中身の多くは、身体に関連することばかりではないでしょうか? つまり、お金、食べ物、衣服や住所、病気、年齢、老いと若さ、恋愛、セックス。
つまり精神的な内容とは、悩み、精神的喜び、楽しさ、苦しみや悲しみ、不安や心配、恐れというものです。ところが、これらでさえ、私たちはどうも、身体の知覚によるものだけに、それを見出しているように思えます。
つまり、プレゼントを受け取り、喜びがある。お金がなくて、不安や心配であり、恐れがある、云々。つまり、いつでも身体が土台の話になっていないでしょうか?
身体に関することで、精神的な内容が生まれているのではありませんか?

「私は傷ついた」という時、それは精神的な内容のように思えます。
誰かに、バカにされた。批判、非難された。それで私は傷ついた、というものです。それは、「あなたは違う、間違っている」と言われていることですね。ただ、その相手の価値観からすれば、ということです。
ただ、人間というもの、あるいは思考というものに関しては、「自分の考えは正しい、正解だ」と思っていても、決してそれは正しくもなく、正解にもならないということです。いえ、もう少し正確に言えば、どのような思考も、その人の観点からすれば「正しい」かもしれませんが、決して「真実」にはなり得ない、ということです。
真実ではないのなら、「正しさ」は無です。無に等しいのではなく、無なのです。
自分の考えを提示することは、真実への道標や道具にはなりますが、真実そのものにはなりません。それは不可能なのです。
その真実ではない言葉によって、私たちは随分と長い間、「私は傷ついた」と発言してきました。あたかも、事実、真実かのように。
けれども、どこにもそんな自己など存在していないのです。

これは幸せな事実ではないでしょうか?
喜びとなる真実ではありませんか?
自分は、傷ついたことなど、一度もなかったのです。

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