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2024/03講話

不意の訪問者

幻想世界、その夢を見ている心は、そして、それが夢だと思っていない心は、行為を大切にしているようです。
行為によって、何かが変わると思っているのです。
だからこそ、いつも、「どうする? どうすればいい?」と悩むわけですが、これがまったくをもって解決に至らないということが、いまだにわかっていません。
そのような心は、分離した(無知の)心であり、また行為の他にも、場所や環境を気にしていることでしょう。暮らす場所や環境で、自分が変わると思っているのです。(これは、私には力がなく、外的な何かにこそ力があり、私は犠牲者で被害者である、”私は影響を受ける”という信念そのものですが、その信念を維持していること、それ自体に気づいていないのです。)
それゆえ、どこか安全な場所、静かな場所、自然溢れる場所に行けばそれはとても良いことだと考えたり、他の次元に行きさえすればきっと素晴らしい生き方や世界が待っていると考えたりするのですが、もちろん、これらの思いは単なる逃避でしかなく、どこに行っても恐れと無知から解放されることはないでしょう。
そもそも、自己の心の状態が、その体験する世界を作るのだということがわかっていないのです。

高次元というものがあるとして(高次元、低次元という時点で、すでに分離、区別、差異があるということであり、それは必然的に葛藤や対立が生まれるということでもあります)、それはそれでもいいのですが、その高次元に至るには結局のところ、逃避が終わらなければなりませんし、逃避が終わるということは、高次元、低次元というものでさえ無意味となるのです。
”永遠”の中に、高次元だとか低次元は必要ありません。
真理とは、言葉ではない、存在(実在)、絶対意識、そして至福です。
これらは”唯一無二の平安”の境地と同義です。
時間でも空間でもなく、次元でも、変化、変容でもありません。

答えは、いつも問題の中にあります。
問題以外の何かに取り組んで、答えが見つかることはありません。
問題以外の何かに取り組むとは、すなわち「逃避する」ということです。
逃避しても、問題は解決できないのです。
「解決しよう」と思った時点で、もう解決ができないのだとわかるでしょうか?
というのは、問題の中に、唯一、その答えがあるからなのです。
取り組むべきは、問題そのものであって、解決方法ではありません。
解決しようと取り組むや否や、すでに出口のない迷路に陥るのです。

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