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とある探求者に宛てた手紙


とある探求者(セッション受講者)に宛てた手紙


心身脱落して、自然に歩く時、あなたは神そのものです。
そんなふうに歩いたことがありますか?

「私は空っぽで、この器には神の葡萄酒が注がれている。私は神の道具。私を通して、神は人を神へと導く。私は無で、私の所有者でもなく、私はただの道具」

こんなふうに。

あなたは、自分の心のざわめきに忙しいかもしれません。
散歩をしている時も、ご飯を食べている時も、友人と会話をしながら、別の空想に潜り込み、ハッと気づいてコーヒーカップを手にする時も。
あるいは、修練のために、その思考に気づこうと努力しているかもしれません。
確かに、探求者であり学徒は、自分の心にしっかりと気づかなければなりません。
けれども、それは初歩段階であり、ある地点を超えると、無意識のような状態になるものです。
それがいわゆる無為自然といったような境地でしょうか。

というのは、その地点では善悪や価値観が本当に意味をなくすので、「自分が制限や束縛を作っているな」とか「あれこれ善悪で裁いているな」とか、そのような思考の過程は終わり(無意識に現れても大事にすることがないという意味です)、全てが無に帰すと同時に、それは風船のようにパンパンになりながら、自由に空を漂うものです。

ポケットいっぱいに、美味しいお菓子を詰め込んで、どこに向かうのでもなく歩いている。
そんな気持ちを覚えているでしょうか?

例えば、あなたが大恋愛の最中で、彼に夢中で、他にどのようなものも視界に入らず散歩をしている時が、同じような状態でしょう。
些細なことは、重要ではありません。
散歩の途中の犬が、あなたにおしっこをかけても、大して重要とも思わないような。
あなたは、確かに衣服を気にして、洗濯をするでしょうけれど、それがなんだというのでしょう?
あなたは幸せに夢中です。

夕暮れの明かりは、最も暗く、あなたの前にひざまずくようです。

すれ違う人は、あなたの発する雰囲気とその香り(オーラ)を感じて、あなたのことを気にし、途端に心を奪われるかもしれません。
彼らには、理由がわからないのです。
途端に心を奪われたことさえも、わかっていません。
あなたは、彼(神)に夢中です。
あなたは風に乗った香りのように、あらゆる人の鼻に触れ、誘惑するでしょうけれど、あなたにはどのような責任もありません。あなたはただ、彼に夢中で、彼に酔いしれているだけです。

あなたの視界には光しか見えていません。
他の人には、あなたしか見えていないのです。

仕事をしても、手につきません。
友人とお茶をしても、虚空を見ているかのようです。
きちんと仕事をします。
けれども、何も重要ではありません。
喜びや楽しさは、時間と共に消えていきます。
悲しみや苦しみも、同じく時間と共に消えていきます。
それゆえ、あなたにとっては、どちらも同じものでしかなく、どちらも重要ではありません。
恐るべきことに、彼(神)は、常にあり、決して消えることがないのです。
あなたは、絶え間ない驚愕に不思議な歓喜を覚え、そして畏怖さえしています。愛しくて、どうしようもありません。それには自分でも説明ができないのです。
そんなあなたを職場の誰かが見て、「おいおい、大丈夫か?」と訝しげに思うかもしれませんが、影響を受けているのはあなたではなく、その職場の誰かの方で、内心、「こんなふうに自由に生きるなんて・・・自分にはできない」と思うでしょう。「ダメだ!」と批判されるかもしれません。攻撃されるかもしれません。無視されるかもしれません。でもそれは、本当は彼ら自身が、何もかもを忘れてそうしたいと思っているからなのです。
でも、自分のルールを破ることができません。

一生懸命に仕事をしても、幸せになるわけではありません。
大恋愛をしても、結婚をしても、どんなにお金持ちになっても、どのような信頼できる友人と仲を良くしても、同じことです。
幸せは、”事象や出来事”とは無関係なのですから。
けれども、あなたが彼(神)に夢中で、幸せである時、風船のようにパンパンで満ち足りている時、あなたはあらゆる仕事を通して、出来事を通して、あなたはあなたの世界に影響を与え続けます。
仕事は大事でも、大事でないわけでもありません。
あらゆることが、大事でも、大事でないわけでもないのです。
あなたにとって大事なことはただ一つです。

あなたが、そのようにあることで、出会う人、すれ違う人、あらゆる人が、あなたという器から葡萄酒を飲むことになります。
見えない葡萄酒に、壁はありません。
それが”愛”なのです。

どのような仕事であれ、どこにでも善悪はありますし、損得、欲望だらけです。
けれども、あなたがそれらに夢中になる必要はありません。
批判したり、攻撃したり、否定したりする必要もないのです。
あなたには、過ごすべき場所が用意されているのであって、あなたはそこで、あそこ、ここで、彼に夢中になることだけを大事にしていればいいのです。
時間と空間無く。
なぜなら、それがあなたが救世主として、あなたの世界の住人に示す唯一のことだからです。

それは、無理やりのことでしょうか?
強引で、強制的なことでしょうか?
あるいは、誰かの命令なのでしょうか?


あなたが、幸せであることが?


少し、別な角度から話しましょう。
私は以前から伝えております。
恐れがあるなら、それに向かいなさい、と。

ルール(自分の中の固定概念)を破って下さい。
自ら構築した無意味な壁を壊すのです。

例えばですが、覚者なら、絶対にやらないだろう、というイメージ、固定概念があるなら、ヘルメスは平気で、それをすることでしょう。
破壊することが、シヴァの仕事です。
そして同時に、それは真の創造点なのです。

「私とあなたは、全く同じ存在である」これが覚者の視点です。
「私とあなたは違う」は、夢見の住人の視点です。
覚者を特別扱いする人ほど、夢を、差別や区別を、善悪を、すなわち分離を見ているだけなのです。自分が、特別な存在にならなければいけないと思い込んでいるのです。
平凡さを愛して下さい。
超能力の類を伝える覚者など、どこにもいないのです。
何らかの神秘体験も然り。
それらは、悟りや目覚めとは無関係であり、どのような実在性も持っておりません。

平凡であることは、素晴らしいことです。
自然であるということが。

どうして、大地に線を引くのでしょう?
どうして、森に境界線を設けるのでしょうか?
「私」と「あなた」と。
どうして、条件付けをするのでしょう?
どうして、自分を束縛し、がんじがらめにし続けるのでしょう?
どうして、善悪を超えられず、羽ばたかないのでしょう?
誰かを裁いても、裁かれるのは自分だけです。
誰かを批判し、攻撃しても、結果的に苦悩するのは自分だけになるのです。

どうして、殻を割って、新しく生まれないのでしょう?
古い皮から脱皮するように、どうして自由にならないのですか?

あなたは恐れゆえに、いまだに殻に閉じこもろうとしているだけなのではありませんか?
それなりの、自分が納得できる理由づけをして。

だからこそ、何であっても構いません、やりたいことをやればいいのです。
あなたは仕事や、これからの人生の歩みに悩んでいます。
でも大事なことは、あなたが恐れから脱皮できずに、その原因と責任を「表面的な仕事、行為」に押し付け、いまだに束縛の鎖に自らしがみついていたい、ということなのです。

職業は、重要ではありません。どれも等しく同じです。
業務内容も、あなたがどのような金額をもらっていようとも。

価値観による正しさとは、無いのです。
ある角度から見れば正しいものが、別の角度から見れば間違いになる。けれども、その別の角度から見て正しいと思えることもあり、その時には、最初の角度からの視点が間違いにもなるのです。
つまり、「絶対的な正しさ」とは、この分離の世界にはないのです。
これが「心」なのだと知ることです。
そうして、闇に終わりを迎え、新鮮な光の中で生きなさい。

あなたの存在そのものが、光であり、正しさなのです。
なぜなら、あなたは”愛”だから。
そして、”愛”に「行為」は関係がありません。

あなたが「正しさ」を考える時、やはりいつも、いまだに「行為」が基本になっていることは明らかです。
何をするか、何をしたか、何をしていないか。
でも、大事なのは、その行為ではないのです。

どうぞ、好きなように生きるべきです。
あなたは、「田舎町で、美しい自然に囲まれながら、美味しい野菜と果物を食べ、動物たちと共に暮らしたい」そんな動画を見せてきました。
けれども、私に言えることは、この美しく思える生活の、この彼女たちにさえ、本当に自由があるかどうかはわからない、ということです。

あなたにとって大事なことは、恐れにチャレンジする、ということだけです。

あなたがやりたいと思うことなら、間違いは何一つないのです。
仮に、失敗だと思われることがあったとしても、人生に失敗はないように、ただ学びだけがあることでしょう。
あなたの思った通りの展開になるわけではありません。
けれども、逆にそれが幸せで、ワクワクすることになる可能性の方が、ずっと多いのです。

この件に当てはまるかどうかは別としても、あなたが恐れゆえに避け続けていたことを、勇気を持っていざすると、展開はパッと、花開くようにずっと広く、大きく開かれるはずです。
あなたは自ら、それを実感することになるでしょう。
だからこそ、恐れに向かうことです。
自分を捨てて。
自分を捨てることこそ、勇気です。
勇気は必要ありません。自分がいなければ。

思い出しなさい。
「私は器。神の道具。運ばれるところに運ばれて、人はこの器で葡萄酒を飲む。私はいない。私が私の所有者になることはない。なぜなら、この私は、私がこれまで思っていた私ではないのだから」

私はいなかった。
けれども、私は在る。
この叡智を見出しなさい。
明日の朝日よりも早く、時間をかけずに。

そうすると、恐れとは無縁の、永遠の平安を見出すことでしょう。

どこかのタイミングで、人はこの地点を通過するのです。
大抵は、困難や、経済的苦境に陥り、「自分は、この恐れを打開しない限り、ずっと逃避する人生で終わってしまう」と痛感する時に。
神とはいつでも、予想だにもしない粋なやり方をするものです。
この小説は、愛と慈悲に満ちています。

あなたにやりたいことがないのなら、ただただ風に体を運ばせてしまうことです。
流れに身を任せて。
実はこれほど、恵まれた人生は他にはないのです。
それを知ることができるなら、あなたは非常に恵まれている。

逆に、もしもあなたに、”本当は”やりたいことがあるなら、必ずやることです。
逃げずに。恐れに負けずに。

どちらでも、同じことになります。



追伸
繰り返しにもなりますが、伝えておきます。
人は、とかく表面的な形で考えがちです。
「何をする?」「どのような職業につく?」
これらは、表面的な行為であって、その形を持って良し悪しを自分に決めているのです。
けれども、あなたはもうおわかりのように、どのような職業に就くにしても、人間関係、損得利益、他、あらゆる類似した問題に直面することになるでしょう。
例外はないのです。
ですから、結局、どのような職業に就くかは、大事ではない、という結論に至るでしょう。

ところがあなたも、「今後、どうする?」と考えるときには、まず「何をする?」と考えるのです。
「どこで? 何を? どのように?」
これらを明確することが、自分に間違いのない結果をもたらすと思い込んでいるのです。

が、やはり、どこで何をするにしても、問題がやってくるのです。
ですから、「どれも同じだ」と伝えているのです。「大事なのは、そこではない」と。

あなたは、田舎暮らしで、たくましい樹木と美しい草花に囲まれ、動物たちや野菜と、果物と、ゆったりと暮らすことを夢見ているのかもしれませんが、動画の彼女らに、苦悩がないと、本当に思っているのですか?

自然環境にいれば、都会にある問題が、なくなると?
煩わしいことがないと?
美しい映像を見て、彼女らが抱えている問題がないと、本当に言えるでしょうか?

さもすれば、多くの方々がまるきり勘違いをして「自然に囲まれた環境で暮らせば、楽しく生きていける」と思い込んでしまうでしょう。

話を戻しますが、どこであれ、何であれ、問題は必ずやってくるのです。
この世界とは、心なのですから。
何をするか? は重要ではありません。


だからこそ、考えてみて下さい。


あなたにとっての人生とは、何が素晴らしいと思えるのですか?


〇〇の仕事をしたから? 〇〇の場所で暮らしているから?
確かに、あなたはこのような視点で考えてきたのです。
けれども、それらが、どこにいても、何をしていても変わりがないものだと明らかに分かったとき、あなたは、「何をしても意味がない」と思えたはずです。さらには、「全てが幻想であるなら、一体なんの意味があるのか?」と。

あなたは、夜明け前の闇に到達しました。
そこは深淵で、漆黒の闇のように何も見えません。
絶望の煙があなたを包み込んで、あなたはそこに埋もれてしまってもいいとさえ、思えてくるのです。
けれども、それさえも、幻想であり、どのような根拠もないものなのです。


さあ、大事なのはここです。


人生の素晴らしさ、醍醐味とは何ですか?



あなたは、ただ神に運ばれて生きる、ということの素晴らしさを体験したでしょうか?
”信仰”そのものの素晴らしさを。
あるいは、”愛として生きる”ということを。

全てを全託して、風に吹かれ、運ばれるところに運ばれ、批判される時には批判され、褒められる時には褒められ、それでも全ては神の御心であり、神の仕業だとして生きる時、それがどれだけ、「表面的な職業」や「行為」とは無関係の、人生の楽しみ方、喜び方をしているのか、あなたは体験して、実感したことがあるでしょうか?
楽しむ者もなく、歓喜する者もいない。ただ神だけが在る。
ないのでもない、あるのでもない、ただ神だけが在る。
あなたは、光のシャワーを浴びて、新しい衣を着るのです。
楽しみ、歓喜し、幸福と平安に包まれて、木陰で昼寝をしているように、あなたは知っており、同時に何も知らないのです。

目覚めた眠りとは、このようなもの。
何もしていないのに、全てが為されている。
全てが為されているのに、何一つ、起こっていない。
あなたは、こうして生きてきたことがあるでしょうか?


あなたにとって、人生の素晴らしさとは何でしょう?
仕事ですか? 何らかのチャレンジですか? 何らかの活躍、評価、得たものの数々でしょうか?
過ごした場所、行ったことのある景色、その光景、見たことのある美しい顔。
これらは、やがて消え去るもの。私には何も重要ではありません。
これらを通じて、あなたが本当に歓喜するほどの人生の素晴らしさとは何でしょう?


あなたは、ただ神に運ばれて生きる、ということの素晴らしさを体験したでしょうか?
”信仰”そのものの素晴らしさを。
あるいは、”愛として生きる”ということを。

全てを全託して、風に吹かれ、運ばれるところに運ばれ、批判される時には批判され、褒められる時には褒められ、それでも全ては神の御心であり、神の仕業だとして生きる時、それがどれだけ、「表面的な職業」や「行為」とは無関係の、人生の楽しみ方、喜び方をしているのか、あなたは体験して、実感したことがあるでしょうか?

そんな生き方を、今までしたことがありますか?


つまり、職業や、業務内容や、人の言葉のあれこれ、そういった数々のことではなく、”神を感じて生きる”ということが。


だから私は手紙で伝えたのです。
今日、明日にでも出かけて、散歩をしてみて下さい、と。

こうして、歩くのです。
「私は空っぽの器。ここには神の葡萄酒だけが注がれる。すれ違う見知らぬ誰かが、この器から葡萄酒を飲む。そして酔いしれ、いつか夢中になる。その人にとって、一番適した時期に。
 私は、私の所有者ではない。私は、私の所有者になることはできない。なぜなら、その私はいないから。一体誰が、すれ違う人に葡萄酒を飲ませるのか? それはもちろん、存在もしない私ではない。だから私は、何一つ、言葉で伝える必要がない。私は在る。私は神の道具。そうして、私はいつも、永遠に、神と共に在る。葡萄酒は私の中身そのものとなり、もはや私と神の区別はなくなることだろう。すると、神が内側からこのように囁いてくるのだ」

私はあなた。
あなたは私。
器など、はじめからどこにも存在などしていないのだ、と。


あなたは歩いたことがあるだろうか?
善悪や、あれこれの良し悪し、(それが自分の心の中身であれ)数々の判断を見て歩くのではなく、神を感じて歩く、ということを。
一緒に、歩いているのだ、ということを。

私が言いたいのは、これなのです。
こういうことなのです。


「私に何ができるか?」ではありません。
ロールプレイングゲームのように、あなたには、決められたアイテムしか与えられていません。
それは何らかの特技かもしれないし、鋭い洞察力かもしれません。
魔法かもしれないし、直向きな努力かもしれません。
「私に何ができるか?」は傲慢です。
できることは無数にあるし、できること以外のことを、やれはしません。
だから、できることをすればいいだけなのです。

目の前の問いに答えなさい。
するべきことは、ただそれだけです。

どうして、「やらない理由」を持ち出すのでしょうか?
公園のベンチに座り、小鳥に話しかけることさえ、神を愛することです。
なんの仕事であっても、身を預けて、生きる時、あなたは運ばれるがままです。時に苦境にあっても、それが神の御心です。

こんな生き方を、あなたはしたことがあるでしょうか?

目の前の問いに答えなさい。
するべきことは、ただそれだけです。

出来事は、いつもあなたに問いを投げかけているのですよ。
「あなたは誰なのか? 何なのか?」


心身脱落して、自然に歩く時、あなたは神そのものです。
そんなふうに歩いたことがありますか?
そんなふうに歩いたことがないのなら、一度も人生を生きていないのと同じことなのです。


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