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2024/01講話

すべては自分次第であります。
心はたった一つしか存在していないのですから。
あの人は、あなたであり私です。
この人も、私でありあなたです。
すべてはたった一つなのですから。

少し別な角度から見てみましょう。
とある会社があるとして、上司となる存在は、部下を支えることのできる存在です。そのような人が、上司となるのです。
部下から慕われているかどうかは関係ありません。
自分勝手な人が上司となったら、どうなるでしょう?
「力」をより与えられる人とは、多くの人を支えることのできる人なのです。
人のために働ける人に、力は与えられます。
それは決して枯れることのない泉のようです。
自分勝手な人に、「力」は与えられません。
「自分のおかげで」とか「自分がやった」と思っている人の心に、「力の水」は流れ込まないのです。
仮に「秘密の力」があるとして、もちろん、自分勝手な人にはその秘密が明かされることはないでしょう。なぜなら、大変なことになってしまうからです。

「私が!私が!」と言っている心。
「私が!」が中心となっている心は、人の話を聞くことができません。人の話を理解することができません。理解しようとしないからです。つまり、人の心に寄り添うことができないし、それゆえ孤立し、孤独になり、そうしてまた、「何で私が?」と不平不満が起こり、自らの心をさらに病んでいくことでしょう。でも、自分には責任がないと思っているのです。
「私は悪くない。相手が・・・」と。
その相手が誰であれ、このように考えているなら、その心は闇に沈んで、物事の本質が見えなくなっているのです。

上司とは、より多くの権限を与えられる人のことです。
より多くの人の面倒を見ることのできる人であり、そのような人が上司となり、権限を与えられます。
その上司とは、人の上に立っているわけではありません。むしろ見えない家の土台のように下に存在し、預けられた人材を支えているのです。そうでなければ、部下は成長できないでしょう。
多くの人の心を理解できる人が、権限と力を与えられるのです。
自分勝手な人に権限や力が与えられたら、大変なことになってしまうでしょうから。
それゆえ、傲慢な人に、智慧は与えられません。
智慧とは、謙虚さや素直さ、純真さから生じるものだからです。

智慧が与えられないと、どうなるでしょう?
それが苦悩なのです。
それは、実際には”薬”なのです。
苦悩しているのなら、まず自分自身を省みなければなりません。
誰かを責めたり、攻撃しても、結局のところ、それは自分自身に返ってくることになります。
”裁く者は、裁かれる”
自分が蒔いた種は、自分で刈り取らなければなりません。
心は、一つなのです。

一番に下にいる人は、支える人です。
支えるには、理解力がなければなりません。
人の気持ちに寄り添える人が、支えることのできる人なのです。

自分は、誰かを支えてきただろうか?
逆に、自分は誰かを批判したり、文句や不満を言ったり、つまり攻撃してきただけだろうか?
不満や文句とは、「なぜ、どうして、私の思い通りにならないのか?」という思いでしかないと、しっかり理解しなければなりません。
「どうして自分の思い通りにならないのか?」と納得できない心に「怒り」が起こります。その「怒り」は、例えばボールを壁に投げると、そのボールが投げた強さのままに自分に返ってくるように、自分自身を打つことになります。
誰でも経験したことがあるでしょうけれど、怒れば怒るほど、疲弊していくのです。また、恐れ、不安や心配も同様であって、それらの思いが大きくなるほど、ひどく疲弊し、消耗することになります。

イエスは、このように言いました、
「人は食べ物で汚れるのではない。心から出る言葉、その思いによって汚れるのである」と。
心の中にある思いが、自分自身を病んでいくのです。

すべては自分次第です。
誰にも罪はありません。

私たちは、誰かのことが嫌いです。あれもこれも、嫌いです。この展開も、あの展開も、こういう、ああいう状況も、嫌いだ、と思います。けれども、何よりも自分のことが嫌いであり、愛することができません。
なぜでしょうか?
また、どうしてこの一大事の問題に、あるいは死活問題というべき問いに、今すぐに向き合わないのでしょう?
時間は待ちません。
与えられた時間には、限りがあります。
この世界では、小学生が、いつまでも小学生のままでいるわけにはいきません。あるいは、大学生と小学生が、いつまでも一緒に学ぶことはできないのです。
仮に、ずっと同じままがいいと思っても、どうしても別れを避けることはできません。進む者はさらに進み、とどまる者は、やがて下がっていきます。「このまま」はないのです。

昔は仲の良かった友達と、ずっと一緒にいるわけにはいきません。実際に、もういないでしょう。
幼い頃は大好きで夢中だったおもちゃで、いつまでも楽しむことはできないのです。実際に、毎日の生活の中で、もう思い出すこともないように。
今、自分に必要不可欠なものが、自然と現れます。
それは一見、「好みではない」かもしれません。「違う」と感じられることの方が、ずっと多いかもしれません。
けれども、間違いなくそれは、「自己の変容」のために、欠かせない出来事であり、存在なのです。

誰もが、「自己の変容」を表面的には望みながらも、「変わりたくない。変わるのはお前(対象)のほうだ」と思います。
自己の変容において、最も障害となるのは、「常識」です。
自分の中の、「当たり前」です。
さらに仔細に言えば、自分の中の「正しさ」なのです。

では、この「正しさ」を捨てる基準とは何でしょうか?
なぜ、自分の思う「正しさ」を捨てなければ変容できないのでしょう?
それは、こういうことです。
もしも、苦悩や恐れがあるなら、「私」は変わらなければなりません。考え方、ものの見方、信念、思い込み、自分の中の「正しさ」を、一旦すべて疑い、あるいは壊して、見直さなければならないのです。

「私はうまくいっている」と思っているのなら、やがて苦悩が心を襲うことでしょう。
なぜなら、「私はうまくいっている」や「うまくいく」ということ自体、迷いであり、無知の心にしか生まれないからです。当然、反対面である「失敗」が消えることはないでしょう。

自分を捨てる、あるいは見直すことは、ひどく大変で、苦労を要する作業です。けれども、変容が起こる時、どうして後悔するでしょう。

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