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2023/08講話

選択を変えれば、結果が変わるのは当然のことです。
けれども、選択とは何かがわかっていなければ、選択を変えたつもりでも実際には何も変わっておらず、それゆえ結果も変わらない、ということがあるでしょう。

右へ行けば・・・
いや、左へ行けば・・・
あの仕事か、それともこの仕事か・・・
これらは、選択ではありません。
というのは、結果は変わらないからです。
色や形、すなわち現象、目の前の事象は当然変わることでしょうけれど、そういった表面的な体験ではなく、”本質的な体験”は何一つ変わることがないのです。

歴史は繰り返す。
これは、選択が何一つ変わっていないということであり、同じことを繰り返しているということです。
けれども、「右へ行けば、いや左へ行けば」というように思い込んでいるなら、いつも心の中には「どうして?」「なんで?」という疑問がついて回ることでしょう。
「変わらない」と。

変わらないのは、同じ選択をしてばかりいる、ということです。

原因が変われば、結果は変わります。
これは当然のことです。
結果がいつも変わらず、同じであるなら、原因が変わっていない、ということです。
それなのに、私たちはいつも「なんで?」「どうして?」と嘆くのです。

私たちは、何かの発言や行動、行為が変われば、きっとうまく展開するだろうと思い込んでいます。
それゆえ、いつも、「どうする?」「何をする?」「どのように?」と思案するわけですが、これらはどれも同じ結果しかもたらしません。
この怯えている心は、いつも「怯える」という結果を招くのです。
そうしてまた、「なんで?」「どうして?」「どうする?」「何をする?」「どのように?」と繰り返すように考え出すのですが、やはり得る結果は同じにしかならず、まさに悪循環の輪のように、ぐるぐると彷徨い続けることになるのです。
何一つ原因は変わっておらず、何一つ選択も変わっていません。


選択とは何でしょうか?
右へも行けるし、左にへも行ける。自由に選択ができる、ということでしょうか?
確かに、自由に選択ができます。
けれども、「右か左にしか行けない」のなら、もう自由とは呼べないでしょう。どちらかを選ぶしかないのですから。
それが三方向であれ、あるいは無数にあっても、同じなのです。

食事をするお店に入り、自由に食べ物を選ぶことができるかもしれません。
けれども、メニュー以外のものは、そのお店にはなく、そのメニューの中から選ぶしかありません。
限定されたものの中で、さらに限定しなければならないのです。

自由に選択する、とはどういうことでしょう?
「これ」「あれ」と限定することが、果たして選択になるでしょうか?
この場合の選択とは、”限定すること”にしかなっていないのです。
「”これ”であり、それ以外は違う」ということです。
そして、この選択の結果は、実際には自分に何をもたらしていることになるのでしょうか?
つまり、”本質的に”。

右か。
左か。
あれか。
これか。
どちらかを選ばなければならないとしたら、すでに束縛されているのです。
それゆえ、「私は束縛されている」「限定されている」と認識が起こることでしょう。
ですから、「どうする?」「どっちにする?」とは、苦しみなのです。
限定され、束縛され、判断を迫られているということは、苦悩以外の何物でもありません。

神の子は、出来事の奴隷なのでしょうか?
それは自由でしょうか?

夢を見ている心は、夢に束縛されています。
”選ばなければならない”とは、不自由さなのです。
けれども、「私は自由だ」と思い込んでいるのです。

「右へ行くか、左へ行くか」
その限られた選択をすることによって、「自分が満たされる」「何か得をする」と思い込んでいます。
だからこそ、「どっちを選べば、私にとって良いのか?」「何をすれば、私にとって良いのか」などとばかり、何時間も思案しているのですが、これ自体が苦しみであり、どちらを選択しても、あるいは何をしても、”本質的に”何一つ得ることがないとわかっていないのです。
けれども、心はそうとは思っていません。
しかも、全く夢に夢中で、疑うことさえしないのです。
何かを得ることができる、それで幸せになることができる、と夢(イメージ)に没頭しているのです。
まさしく、それは”我を忘れている”ということです。
私とは何か、を。

これは非常に重要なお話です。

あれか、これか、何にするか。
何をするか?
何をすればいいのか?
あれか、これか、どの道を選択するか。
「どうする?」
これらは、選択とは呼べないのです。
もちろん、私たちはこれらを選択と呼んでいますし、それによって表面的な体験が変わるのは確かなことです。
けれども、前述したように、”本質的な体験”は何一つ変わっていません。
だからこそ同じことが繰り返されるのです。
「手を変え、品を変え」というように。
例えばそれは、あるお店に入り、パスタを食べようが、お寿司を食べようが、「ご飯を食べたことには変わりがない」というようなものです。
けれども心は、「パスタを食べたから」「お寿司を食べたから」と判断を下し、それによって、結果が変わった、と思い込むのです。
こうして、表面的な色や形、事象に惑わされると、表面的な色や形としての判断、選択、変更によって、自分の状態が変わり得る、と錯覚し、あるいは催眠状態にかかったようになり、その泥沼から抜け出ることができなくなってくるのです。

これは、「出来事に力があり、私には力がありません」ということです。ところが表面的には、「私は自由に選択できる力がある」と思い込んでいます。
確かに、その通りでしょう。力があり、自由があるのです。
けれどもそれは、「どうする?」という迷い、苦悩から生まれる力ではありません。苦悩から生まれたもの、それらを自由や力とは呼べないのです。
「どうする?」とは、すでに影響を受けている状態だからです。

「どうする?」とは選択ではありません。なぜなら、その道のりではまた同じように「どうする?」と問わなければならなくなるからです。
つまり、何も変わってなどいないのです。
そして、むしろ、「どうする?」という苦悩の終焉こそ、新たな選択なのであり、新たな道のりなのです。

夢に没頭している心はいつも「どうする?」「何をする?」「何をすればいい?」「どっちを?」と悩みます。その選択の結果が、自分の明暗を分けるほどに重要だと思い込んでいるのです。
けれども、それは”明暗を分けること”にはなりません。
同じことの繰り返しでしかないからです。
夢の虜になっている心には常に「どうする?」という選択とは呼べない選択があり、それそのものは不安であり心配でしかないのです。

心は、「失敗してはいけない」と感じています。
恐れゆえに。

そしてまた、どちらかを選択したことが「成功だ」とも錯覚しています。
こうして夢とその現象に囚われた心は、まさに「私とは何か?」がわからなくなり、束縛されて「自由」を失っていくのです。
「私は自由だ、自由に選択ができるのだ」と信じながら。
成功もなく、失敗もないとはわかりません。
成功があり、失敗があると信じ切っているからです。

これは至極重要なことです。
選択が変われば、結果が変わります。
結果が変わっていないのなら、それは選択できていないのです。
原因が変われば、結果が変わります。
結果が変わっていないのなら、それは原因が何一つ変わっていないのです。

右へ行っても、左に行っても、無数に見える道のどこを歩いても、恐れと苦悩があるなら、それは選択できていないのです。
つまり真の意味で、「自由への選択」を。

いつも同じことを繰り返している、いつも同じような問題で苦しんでいる、と感じるなら、結果の原因が変わっていないのです。
原因が変わらないのなら、結果は変わることがありません。

原因と結果は、同じものなのです。

つまり、結果が「不自由で、苦しみがある」なら、そもそも原因が、「不自由で、苦しみがある」なのです。まさに束縛されており、自由ではないということです。
自由に、どうして苦悩が起こり得るでしょう?

自由とは解放状態そのものであり、あるいは、解放や束縛といった二元対立、そういった一切の概念が皆無な境地なのです。

「真実が、あなたを自由にする」という言葉があります。
まさに、真実そのものが自由そのものです。
自由が、真実なのです。
自由とは、自由がもたらすものです。
原因と結果が同じであるように。

こうして初めて、心は”真の選択”を見出すのです。
それは原因が変わることであり、当然、結果も変わります。
それに時間は必要ありません。
それは”本質的な原因の変化と真の選択”です。
真の選択が行われる時、これまでの選択は終焉を迎えます。
なぜなら、束縛と限定が終焉するからです。
夢から目覚めた心は太陽ほどに明確に、何が束縛で、何が限定で、文字通り、何が夢なのかをはっきりと自覚するのです。




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