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砂浜(短編小説:期間限定再掲示)

砂浜


 暑い夏休みの海。その砂浜で、彼は生まれた。父は小学生の男の子だった。父の手は温もりと想像力にあふれていて、その結果が彼となって姿を現したのである。彼には形が与えられ、話しかけられることによって心を持つにいたった。父は、彼がやがて波によって消滅させられてしまうことを、みじんも考えたりしなかった。
 運よく、わずかに波のとどかない距離に、彼は生まれた。父は、そばを通り過ぎる大人たちに踏みつけられたり、つまり、壊されたりすることのないように、しっかりと彼を守っていた。そしてかわいがり、「よしよし」と何度も手のひらでポンポンと優しくたたき、あるいは流線型の体をいとおしむようになでるのだった。その体の丸みは、父にとっては最高の出来だった。形がくずれてしまわないように、小さなバケツを持っておそるおそる海に入り、何度も水をくんできては、彼を湿らせてあげるのだった。水を直接かけるのではなくて、バケツに自分の手をひたし、その手を静かに、そっと彼の体にあてる。トントン。トントン。よしよし、よしよしとつぶやきながら、手間をおしむことなく、ていねいに湿らせてあげる。
「気持ちいいかい? 気持ちいいだろ?」
 愛でながら優しく語りかけると、わが子が微笑むように思えるのであった。

 生まれたその日が、永遠に続くかのように思われた。父がずっとそばにいてくれるものと思い込んでいた。けれどもお日様が傾いて、やがて空が赤く染まってくると、父がそわそわしだして、何度も、父の父から、「そろそろ行くぞ」と声をかけられているのを見ることになった。彼は、これから何が起こるのかを、不思議と察知していた。だからこそ、不安でいっぱいだった。空の色の変化に比例するかのように、父と彼もまた、暗くなっていった。
 そして、時がきた。
「バイバイ」父は肩を落として、さみしそうにいった。
 彼には、割りばしの先によってまんまるに描かれた目があり、あとにその割りばしを挿して作られた、ずいぶんと高い鼻があったけれど、口はなかった。だから心のなかでは気持ちを伝えているのに、言葉にならなかった。お父さんに、気持ちがとどかない。
 むじょうにも、遊びの終わりと別れの時がやってきたのだ。
 父は、父の母の手によって、いやいや連れて行かれるように見えた。なごりおしそうに、ちらちらと後ろを振り返っていたけれど、それでもしばらく歩くと、もう振り返ることもなくなってしまった。もはや父の瞳に彼の姿がうつることはなく、父はその両親とにこやかに笑顔で去って行ったのだった。
「夕飯は、何を食べる?」男の子の母親が訊いて、「ハンバーグ」と父は答えていた。「よおーし、じゃあ、いっぱい食べような」父の父は、父の頭をポンポンとたたいている。よしよし、とでもいうように。
 夕陽もまた、彼らと一緒に消えてゆく。
 残された彼は、無言のようである。彼が動くことはない。けれども必死に叫んでいた。「ぼくはいったいどうなるの? ねえ、お父さん、これからどうなるの?」
 父は、彼を置いて消えてしまった。
 ぽつんと、砂浜に残された彼は、動くことがなかった。

 見上げた夜空は美しかった。星々が輝いていて、明るい光もあれば、暗めの光もあった。新月をすぎたばかりの月は、シャープペンシルで書いたように細い。星はゆっくりと闇を移動していた。ときには急いで移動する光もあって、あまりにも速いので、はっきりと見ることができなかった。砂浜はしんとして、打ち寄せる波の音だけが静寂に響きわたっている。静かになればなるほど、彼は自分の存在を感じた。ぽつんと、墨汁が白紙に一滴、落ちてしまったかのように、ぽつんと。
 父を思った。その無邪気な顔が浮かぶ。笑い声がいまでもはっきりと聞こえてくる。温かな、そして無造作な手つきの感触がよみがえった。小さくて、やわらかい。けれども力強く、愛情のこもったその手は、彼の記憶の中で宝物になっていた。
 ふいに、うれしくなった。父が作りだしてくれたという記憶が、喜びをもたらすのだった。けれども、父がもう戻ってこないと思うと、瞳から涙があふれ、みずからの体に染み込んでいった。湿り気を帯びると、どういうわけか、体が丈夫になるように感じられる。父は体が乾かないように、一生懸命に塩水をかけてくれていたのを思いだした。そうか、と思った。体が乾くとき、きっとぼくは崩れ去ってしまうのかもしれない。そうして、懸命に塩水をかけてくれていた父を思うと、また涙がこぼれて体に染み込んでいくのだった。
 この涙もまた、塩水でできているに違いない。かなしみに暮れて泣くことで、自分の姿形を保つとは、なんとみじめなことだろう。彼は思うのだった。苦悩することで、生きていることを実感するとは、なんて奇妙なことだろう? 矛盾という言葉を知らなくても、あるいは不条理という言葉を知らなくても、その心情そのものに違いなどあるはずがない。彼はまさにいま、矛盾や不条理といった言葉で表現されるものを、みずから体験しているのであった。

「ねえ」
 だしぬけに細い声が聞こえた。声をかけられている。左に視線を向けると、少し離れたやや前方に、砂でできた小さな丸い物体があった。
「こんばんは」丸いものがいった。小さな体型にふさわしく、か細くてかわいらしい声だ。ところが、その丸いものには、自分と同じように口がない。
「ええ、口はないわ」丸いものはいった。「わたしはね、おにぎり」
 彼は、おにぎりとは何かを知らなかった。すると、そのおにぎりと名乗る丸いものが続けていった。
「今から、イメージを送るわね」
 次の瞬間、彼はおにぎりとは何かを知った。
「これはね、わたしを作った彼女のイメージよ」おにぎりがいう。「わたしたちがこうして会話できるのも、物理的なものを超えて、つながっているからなの」
 頭がかゆくなってきた。両側に刺さっている割りばしの手で、頭をかきむしりたいくらいだ。
「イメージをダウンロードできれば、なんでも理解できる」
 得意げな口調でおにぎりが教えてくれるけれど、今度は頭が痛くなるようだ。「ぼくにはよくわからないよ」そう、自分でも自分がわからない。
「あなたは今日、作られたようね」
「うん」彼は返答した。「きみは?」
「わたしは昨日よ。ずっとそばにいたことに気がつかなかった?」
 彼は父に夢中だったので、周囲の状況が目に入らなかったのである。
「あら」おにぎりは残念そうにいった。「しかたがないわね。でも結局、わたしたちは同じように置いていかれたよう」
 思っていた通りであった。ふたたびさみしさが込み上げてくる。父の姿とその優しい笑顔を、もう二度と見ることはできないのだ。
 おにぎりは、彼の心の声を聞くことができるようで、元気づけようと、すぐにはげましてくれた。
「でも、あなたにはわたしがいるわ」
 しかし、曇った天気がそう簡単に晴れることがないように、気持ちはもやもやとしており、すっきりとはしない。そんな心持ちをおもんばかるように、おにぎりが続けていった。
「わたしたちは自分で動くことができないから、ずっと一緒よ。近づいて触れ合うことはできないけど、ばらばらに離れてしまうこともない。だから心配はしないで。元気をだして。わたしがそばにいるんだから、ね」
 そうか、と彼は思った。そうだね、その通りかもしれない。
「ところで、あなたは一体、何?」
 おにぎりに聞かれて、彼は答えた。
「ぼくはどうも、雪だるま、というものらしい」
「雪だるま?」
「そうだよ」
「それ、何?」
「ぼくにもよくわからない。一つだけわかっていることは、ぼくには目があるけど、どうやら口というものは作られなかったようなんだ」
「わたしにも口はないわ。わたしなんか逆に、口の中に入れられるものみたい。食べ物っていうらしいわ」
「きみが? 口の中に入るの?」
「ええ。でもわたしはおにぎりの模造品。ほんとうのおにぎりではないの」
「つまり?」
「つまり? そうね、つまりわたしはただの砂。あなたもそうよ」
「え?」雪だるまは驚いた。「ぼくが砂?」
「そうよ、あら、まだ知らなかった?」おにぎりはひと呼吸を置いて、教壇に立つ先生のような口ぶりで説明をはじめた。「わたしとあなたには、どんな違いもない。あなたの立っている、その地面もね。地面とあなたはまったく同じ素材でできているのよ」
 それは彼にとってはおどろきの事実であった。
 おにぎりは伝えた。
「わたしたちは結局、一つの同じ存在でしかないの。でも、同じ砂だからこうして会話ができるわけじゃない。いったでしょう? 物理的なものを超えているって。   けど、じつはね、わたしもまだはっきりとは解明できていないの」
 やや強い風が吹いて、雪だるまの体をかすめていった。気のせいか、星の数が減り、暗さが増したような気がする。
 彼は、自分がどこからどうやって生まれたのか、わかっていなかった。気づいたら、話しかけられている自分がいて、視界には父の楽しそうな笑顔があったのである。彼は考えた、自分はいったい、どこからやってきて、これからどこに行くことになるのだろうと。
「だから」おにぎりが口をはさむ。「どこにも行かないんだってば」
 話を聞いていないかのように、雪だるまは尋ねた。
「きみはこれからどうするの?」
「さあ、わからない。どうしようもないわね。だって、自分の運命を知ることができる? これからどうなるかなんて、誰にもわからない」
「きみは、なんでも知っているんだね?」
「いいえ」包丁で果物を半分に切るように、おにぎりはきっぱりと否定した。「その逆よ。何も知らないし、知ることもできない。いま話していることは、日中にダウンロードしたことだけど、これで全部ではないし、わたしが思うに、この記憶というものが、何かの役に立つとは思えないの」
「どうして?」
「だって、いくら知識や情報を得ても、ほら、ごらんなさいよ。ここから一歩だって動くことができない。なら、ダウンロードした知識がなんの役に立つっていうの?」
「そうかな? ぼくにはきみがなんでも知っているように思えるし、なんでもできるように感じてしまう。それはなぜだろう?」
「何もできないことを、あなたもわたしも目の当たりにしている。違う?」
「でも、こうして会話をしているのは楽しいよ。さみしさを感じない」
 おにぎりから笑みがこぼれた。わたしもそうよ、と目がいっていた。

 気づかぬうちに、時がすすんでいた。線のように細い月はずいぶんと移動していたし、その月が洞窟のように暗い海にゆらめきながら映り込んでいる場所も変わっている。風景が同じまま、何ひとつ変わらない、ということはありえない。けれども、雪だるまにはまだそれがわからなかった。
「ところで」おにぎりが唐突にいった。「今夜はこれから台風が来るそうよ」
「台風?」
「ええ、大変だって騒いでいたけど、わたしにもよくわからない」
 生ぬるい空気のなかを、ピューッと冷たい風が突っ切るように吹き抜けて、波がざわざわと騒いだ。すでにだいぶ様相が変わってきていたのだが、会話を楽しむことに没頭していた彼らには気づけなかったのである。
「ねえ、見て。波が高くなってない?」おにぎりは不安げにいった。「これから何が起こるのかしら?」
 雪だるまも、胸のあたりがゆらめきはじめた。
 地平線のように真っ平らな砂浜に、こぶのように、ぽつんと突き出た彼らは、あまりにも孤立しているようである。
「なんだかよくわからないけど、ともかくきみに出会えてよかったよ」彼はいった。「ぼくは独りきりになったと思っていたから」
 あるいは彼らは、夜明けがおとずれても残ってしまった星の輝きのようであった。
「わたしの予想では」おもむろに、おにぎりがいう。「きっと他にも砂でできた仲間たちがどこかにいるはずなんだけど、みんなはどこにいるのかしら?」
「仲間?」
「ええ、だって、わたしたちがいるってことは、他にも同じような存在がいるってことじゃない? わたしの見解では、どうやらここは砂で何かを作る場所なのよ。今日、あなたが作られる過程をずっと見ていたわ。小さな生き物が、あなたをきれいに作ると、大きな生き物が、小さな生き物をほめて、喜ぶの。彼らは人間と呼ばれている」
 雪だるまは、小さな生き物とは父のことだと理解できた。
「きみの観察力はすごいね」
「思うに」おにぎりが続ける。「きっと、小さな生き物を作りだしたのが、あの大きな生き物たちで、だから小さな生き物もまた、自分よりも小さなものを作りだそうとしているのよ。もしくは、自分のコピーをね。そうして、喜ぶの」
「それがぼくたちってわけ?」
「そうよ」
 疑問がわいた彼は、尋ねた。
「じゃあ、どうしてぼくたちはここに置き去りにされたんだい?」
 すると、おにぎりは黙り込んでしまった。
「大きな生き物は、小さな生き物を連れて、楽しそうに一緒にどこかへ行ってしまったよ。どうして、ぼくは一緒に行けないんだい?」
 砂浜の上に、ボールのように丸く固められている物体には、生命の息吹が感じられない。おにぎりはしんとして、あたかもそこには誰もいないかのようにさえ思える。まるでにぎわう街中に設置された銅像のようだ。風が押し寄せ、存在を無視して通過する。
 ザブンと、大きな波が落ちた。少しずつ荒れはじめている大海が一歩、また一歩と近づいている。

 まぶしくて見上げることも容易ではなかった日中。青空の下、遠くの海は凪いでいた。離れていても、水面がキラキラとダイヤモンドのように輝いているのが一面に見えていた。一艘の船が、静止しているように見えて、動いていた。手前の波打ち際ではあちこちで水しぶきと歓声があがり、落ち着くような場所などどこにもないのに、心は平和であった。ところがいまや、ザブンと波が落ち、水しぶきが飛び散っても、歓声のひとつもない。人間たちは一人として、この暗い砂浜にはいないのだ。
 自分の内側で、お祭りのように笑顔ではしゃぐ人間たちの歓声に聞き入るほど、彼は人のいない荒涼とした外側の景を見て、暗闇に飲み込まれるように畏怖するのであった。

 雪だるまは、視界に入るかぎり、辺りを見わたした。他にはどこにも、自分たちのような容姿をもった砂は見当たらない。
「みんな、どこに行ってしまったのだろう?」
 ピューッと、また強い風が吹いた。水際では、泡立つ白い波もようが数おおく見えている。ザブンと波が落ち、立て続けにまたザブンと波が落ちる。盛り上がっては消え、消えてはまたどこからともなく盛り上がり、ザブンと音を響かせて消えてゆく。雪だるまは、なんだか胸の奥がぎゅっと締めつけられるように感じた。いや、もうずっと前から感じているのに、見ないふりをしているだけなのだ。得体のしれない何かが、徐々に群がってこちらに押し寄せてくるようだ。
「そういえばね」おにぎりが思いだしていった。「今日、見たわ」
「何を?」
「あの生き物たちは、砂ではない丸くてすべすべしているものを、手にした硬い棒でたたいて割って、その中につまっていた真っ赤なもの、それはぐしゃっとして、気味の悪いものだったけど、それを食べてから、みんなで楽しそうに笑うの」
 けれども、雪だるまにはぜんぜんイメージができなかった。
「そうよね、じゃあ、またいまからイメージを送るわ」
 と、すぐさまおにぎりと同じ映像を見せられた。
「これは、いったい何だい?」
「さあ、わからないけど、ほんとうに恐ろしいわ。目を隠して、どこに丸いものがあるのかもわからないような状態で、それでもあの生き物たちは笑って、楽しそうに、こっちだ、あっちだと騒いで、それから一気に手にした棒を振り下ろすの。それで丸い物体が破壊されると、みんなで一斉に喜んで、今度はその中身をみんなで、むさぼるように食べるのよ」
 かぶりつく人間たちの口もとが真っ赤に染まっている。
「でも、ぼくのお父さんは優しかったよ」雪だるまはいった。こんなひどいことはしていなかったのだ。
「でも、彼らは人間と呼ばれていて、大きくても小さくても、みんな同じ生き物よ。違いなんてない。あなたを作ったあの小さな人間は、たしかにあなたを生みだしたお父さんかもしれないけど、でも彼らは彼ら。あなたのお父さんもきっと、いつか棒を振り下ろすことになると思う」
「そんなわけがないよ」彼は反論するのだった。
 スイカが、ぐしゃっと割れる。真っ赤な液体が飛び散り、かたまりの一つ一つを、うれしそうに頬張る。他の場所では、ちゅうぐらいの大きさの人間たちが、別な丸い物体を、今度は宙に放り投げて、地面に落ちないように必死で走り回っている。うわっとか、やばっとか、ほらっとか、色々な言葉を口から発して、とにかく丸くて軽い物体が地面に落ちないように上ばかり見て動いている。空に向かって丸いものを勢いよくたたくのだ。そんな映像を見て、雪だるまは、いったい何が楽しいのかわからなかった。自分にとって笑うこと、楽しさとは、ただ父と一緒にいることだけだったから。
「きみは、お父さんたちの色々な姿を見ていたんだね」
「たしかに、あの小さな人間は、大きな人間に対して、お父さん、お母さんといっていたわ。でもきっと、あなたの場合は違う。だって、わたしたちはあの生き物ではないし、彼らはわたしたちのことを砂と呼んでいたもの」
「でも」彼はあくまでも抵抗を続けた。「ぼくを作ったのは、お父さんだよ」自分には、破壊されたくないものがあるのだ。
 おにぎりは、納得しない彼に対して論争したくなったが、ぐっとこらえて、その口を一文字に結んだ。かなしいのは、自分も同じであった。
「お父さんは、どこにいるんだろう?」落ち着かなくなった彼がつぶやく。「ねえ、どこにいると思う?」
 だが、おにぎりはその話題には加わらなかった。

 ピューッと冷たい強風が吹く。その頻度が増している。昼間よりも、ずっと気温が下がっている。自分の目を疑うように、あるいは、沈んだ夕陽を引っ張り上げるように人影を捜(さが)して見るけれど、やはりもう、どこにも見ることができない。あとを追って、星さえも消えてしまいそうである。結局、いやでも、うごめいている海とその波ばかりに目を奪われてしまう。
 突如、ビュッと突風が吹いた。その時であった。雪だるまの片腕、左側に刺さっていた割りばしが一本、風に飛ばされて落ちたのである。
「え」彼は驚いた。ただの驚きではない、驚愕に近いものだ。むろん、痛みがあるわけではない。だが自分の一部が、自分から離れ落ちてしまったのだ。
 様子に気づいたおにぎりが声をかける。
「大丈夫よ、心配ない。それは割りばしだから。あなたではないの」
 けれども、雪だるまにはとうてい納得できるセリフではなかった。
「うそだ」動揺した彼が叫ぶように発した。「ぼくの腕が、ぼくの腕が……」
「大丈夫よ、慌てないで」おにぎりも慌てて言い聞かせる。「あなたには何も起こってないの。それはあなたの一部ではないわ」
 大海の波が荒れてくるように、彼の心も入り乱れてきた。さまざまな思いが浮かんでは消え、混乱が生じはじめている。これは、お父さんが笑顔で「よしよし」といいながら作ってくれたぼくの腕だ、その腕が取れてしまうなんて  。雪だるまは必死に、落ちてしまった腕を拾おうとしたが、体はぴくりとも動かなかった。心だけが、すぐに拾おうとして慌てふためいている。
「大丈夫よ」おにぎりはもう一度、彼を落ち着かせるように、わざとゆっくりとした口調で伝えた。「大丈夫。それはね、割りばしというの。あなたは砂で、割りばしじゃない」
 諦めきれないが、諦めるしかない。体が動かないのを自覚しているのは、他でもない自分自身である。眼下に、自分の腕が落ちている。生命を失った死体のように横たわっている。いまならまだ、間に合うかもしれない。拾うことができるなら、また腕として、生き返らせることができるかもしれない。そんなふうに思いながらも、何もすることができない。一ミリも動くことができない。ただ起こる事態を見ていることしかできないのだ。
 どんな力もないのかもしれない、と彼は思うのだった。生きているのに、どんな力も与えられていないなんて  なんという悲劇だろう?
 ピューッと強風が吹き、もはや止むことがなくなってきた。どこかに巨大な扇風機が隠れていて、スイッチが入ったように風が横に吹き続けている。もう止まらない。いじわるにも思えた。夜空の星も落ちてきそうである。いや、すでにいくつかの星は飛ばされて、大地に落ちてしまったのかもしれない。真っ黒な絵の具で塗りつぶされたように、ずいぶんと星が見えなくなっていたからである。
 雲の流れが速い。分厚くて重苦しそうなダークグレー色の雲が、悪の親分にせき立てられるようにこちらに向かってやってくる。兵隊が隊列を組んで行進してくるようだ。
 おにぎりがとっさに叫んだ。
「ねえ、見て!」
 海を見た。地平線をおおい隠すような、巨大な壁が見える。
「向こうよ!」
 彼はすでに見ていたが、おにぎりは急かした。
「わかる? 向こうに見えるの」
「あれは、何?」雪だるまは訊いた。
「波よ、波に決まっているじゃない」おにぎりがせわしなく説明をする。「大きな波がこっちに近づいてくるわ。だんだん大きくなっている」
「あれが、波?」
 壁のように見えるのは波であった。白くて乾いている砂浜に、黒くて大きな水の軍隊が迫りつつある。
「ねえ、どうなるの?」彼は尋ねた。
 躊躇しながら、おにぎりが答える。
「さあ、わからないわ。わたしにもわからないの」そういってから、自分に言い聞かせるように、また言葉を紡いだ。「でもきっと、心配はないわ。そうよ、心配ない。だってここはずいぶんと離れているもの。ねえ、そうでしょう? どんな波も、ここまではたどり着かない。そう、きっとそうよ、ねえ、そうよね?」
 ところが、あらためて波打ち際を見ると、漠然とだが、海自体と自分との距離が縮まっているように感じられた。うそでしょ、と目を疑う。だがおにぎりは、それを口にするのをやめた。そしてそれは、雪だるまも同じであった。
 言葉を失ってしまった。何も出てこない。間断なく強風が吹きすさみ、ガタガタと物音が背後から聞こえる。彼らには見ることができない、海の家の看板が震えている音だ。周囲にある木々もまた、生い茂った葉と葉がこすれて、ザワザワと痛いくらいにもだえている。いくつかの細い枝が折れるのは時間の問題のようだ。おどかすようにビュッと突風が顔をだし、どこかに放置されていたバケツが飛んだ。人間と呼ばれる生き物たちが残していったゴミやポリ袋の数々が飛ばされている。あっちに、今度はこっちに、行き場なく、砂浜一帯をさまよう幽霊のようにも見える。

 もはや日中の明るくて楽しげだった様相とは一変していた。隠れていたものが、明らかにされるようでもあった。見たくはない暗闇を、見せられるしかない。顔をそむけて、どこかに行ってしまいたいけれど、どこにも行くことができない。ぼくたちは、ここに置き去りにされてしまって、自分ではどうすることもできないのだ。
 人間と呼ばれる生き物たちも、この不安な夜を過ごしているだろうか。同じように、胸の内側が窮屈になる夜を生きているだろうか。それとも、人間たちだけは別で、日中のように明るいどこか他の場所にでも行ってしまったのだろうか。
 鉛のように重い溜め息がでて、お父さん、と彼は心のなかでつぶやいた。そうせざるを得ない。他にすがるものがないのである。ほんのりとした薄明かりに照らされ、あの無邪気な笑顔が浮かぶ。けれども、すぐに現実に戻されてしまう。夢を見る時間は与えられていない。記憶をめぐる旅に出かける余裕はなかった。樹木は風に押されて斜めに傾き、白いビニール袋が周辺を飛び回っている。やがて彼らの目の前にもふわりとした白い幽霊が横切るようになった。
「ねえ、聞いて」切羽詰まったように、おにぎりが声をかけた。「聞いてほしいの」
 彼はおにぎりに向き直って耳を傾けた。
「もしかすれば、来年にはまた会えるかもしれないわ。あなたのお父さんと」
 それはどういうことだろう、と疑問が浮かぶ。
「というのはね、彼らはきっと、去年もここに来ていたからよ」
「来年とか、去年とか、それは何だい?」
「わたしは今日、偶然、ダウンロードすることを覚えた。ほんとうに偶然で、ただ彼らの心の声に耳を傾けるだけでよかった。あなたとわたしが、いまこうして、心を通じて語り合っているようにね」
「もう少し、くわしく説明してくれるかな?」彼がお願いをする。
 おにぎりは頷いた。
「わたしは今日、耳をすませて人間たちの会話を聞いていた。十分な時間があったの。たくさんの言葉が聞こえて、その言葉の意味を知ろうとしたとき、心にアクセスすることが可能だと知った。つまり、彼らの記憶やそのイメージを見ることに成功したの。
 あなたのお父さんが、帰るのがいやだといったとき、大きな人間がこういったわ、また来年も来ような、って。それでわたしはその言葉の意味を知るために、彼らの記憶をたどって調べてみた。すると、同じような夏の海の風景が鮮明にでてきた。面白いことに、過去の映像が現れたの。あなたのお父さんはきっと、たぶんだけど、去年もここに来ていて、それを覚えていた。そしてまた来年も、同じことを繰り返すのだとわかっているようだった。姿は少しだけ違っていたけど、間違いないわ。あなたのお父さんと、お父さんのまたお父さんと、彼らは去年も一緒にこの海と呼ばれている場所に来ていたの」
「きみがダウンロードと呼んでいるものは、お父さんたちが持っている記憶を知るっていうことになるのかな?」
「そうね、そういうことみたい。彼らが保存しているものを、わたしも同じように得ることができるの。それで今日、たくさんの情報を得たわ。こうして話をしている言葉というものには、つねにイメージや記憶というものがともなっていて、その映像を見ると、ようやく言葉が何を表しているのかが理解できるようになる」
 ふと疑問に思って、彼が訊いた。
「映像が最初にあるの? それとも、言葉が映像を作りだすの?」
「さあ、それははっきりとしない。でも、何か言葉を伝えると、その情報に反応するように、心に映像が浮かぶのよ。でもあなたがいうように、記憶のなかの映像があるからこそ、言葉が生まれるのかもしれない」
「じゃあ」半ばうれしくなってきて、彼ははしゃいだ。「とにかくその来年というものによって、お父さんとまた会うことができるんだね?」。わずかばかりの希望が生まれたのである。
「そうね、少しだけ言葉の使い方がまちがっているけど」
「どういうことだい?」
「どうやらこの世界には時間というものがあって、さっきまでは明るかったけど、いまはもう暗いでしょう? まんまるい太陽と呼ばれている光が消えて、代わりに細い線のような太陽が出ている。人間たちは太陽を見て、暑いな、といっていた。日差しが強いとかね。話を戻すけど、そんなふうに明るくなったり暗くなったりする時間というものがあって、記憶のなかの映像がうっすらと消えそうなものを、過去と呼んでいる。昔のこと。去年というのは、その昔の別ないい方のようだわ」
 なんだか頭が痛くなってきて、雪だるまは眠りたくなってしまった。
「その気持ち、わかるわ」共感して、また話を続けた。「それでね、人間と呼ばれている彼らの一人がこんなふうにいっていたの。今夜は台風が来るらしいぞ、って。それからわたしはその台風のイメージを垣間見たけど……、なんだか時間がものすごいスピードで過ぎ去っていくような感じだった。人間たちはふだん、ゆったりと歩いているけど、みんな慌てて走っているような感じだった。何もかもが速いのよ」
 またお父さんに会えるかもしれない、そう思って幸福感にひたっていた。一瞬にして、自分にとって不要な何もかもを忘れたような気分。ふたたび父の小さな手で、自分がなでられることを思うと、待ち遠しくなって、じっとしていられない。来年とは、時間が過ぎ去ることだと知った。おにぎりの話を安直に受け止めた彼は、早く台風がやってきて、ものすごいスピードで時間がすすんでいくのが楽しみで仕方がなくなったのである。
 ワクワクする雪だるまとは対照的に、おにぎりは迫りくる大きな波に視線を戻していた。大変だわ、と不安でいっぱいだ。どんどん時が迫っている。時計の尖った針に、チクチクと胸の下をつつかれているようだ。他には何も目に入らない。明るい未来なんて、どこにも見ることができない。切羽詰まると、逆に何も行動することができなくなるように、ただ茫然自失になって立ち尽くしていた。不可思議で奇妙なことに、ふとした刹那、みずから進んでこの海に入り込んでいきたいとも思ってしまう。逃げられないのなら、みずから進んで消えてしまいたいと思うのだ。馬鹿げている、と自分の思いをかえりみる。けれども結局のところ、そんなことさえもできやしない。ただ諦めて時が来るのを待つしかない。なされるがまま、されるがまま、自分には選択の余地などないのである。
「ねえ、やっぱり」おにぎりが震える声でいった。「波が近づいてくるわ。どんどん大きくなっている」
 同じことを何度も繰り返し思っていた。それ以外、何も考えられなかったのである。ピューッ、ピューッと、横殴りの風が止まらない。足もとの細かな砂粒がサラサラと、奇怪な音を立てて飛ばされ、姿の見えない何者かにさらわれてゆく。
「どこまで波は大きくなるのだろう?」
「わからないわ」
「でも、あの波というものがぼくに降りかかってしまったら、どうなるの?」
 おにぎりは少しばかりいらだち、文句をぶつけるようにいった。
「どうなるのって、あなたまだわからないの? もしもあの大きな波がここまでとどいたなら、そのときはきっと、わたしたちはあの波に飲み込まれてしまうの。食べられて消えてしまうのよ。消えるの、わからない?」そう伝えて、いまにも逃げだしたい気持ちで胸をつまらせた。「どうしよう、どうしたらいいの?」
 もちろん、雪だるまにも想像はついていた。しかし、確かめたかったのである、ある意味ではほんとうの事実を。

 あの高波がやってきたら、きっと自分の体が崩れてしまうであろうことは予想ができる。けれども、もしかすればそうはならないかもしれない。なぜなら、彼にとっては何もかもがはじめてであり、未体験だからである。ところが、どういうわけか、彼は不安を感じていた。恐ろしいことが起こるとわかっている。一度も体験をしていないのに、だ。うっすらと、まだ光の当てられていない記憶の一部で、「これは大変だ、身に迫る危険だ。波に直撃されたなら、もう生きていることはできないだろう」と知っているようでもある。しかしながら、根拠というものがない。不可思議なことに、イメージだけが記憶に残されており、正確にいえば、いまだ何も体験していないことのほうがずっと事実であり、真実であった。それだから彼は、知っているようで知らない、知らないようで知っている、そんな矛盾する心境に戸惑うばかりだったのである。
 早く父と再会したい。可能だと思うと気分が高鳴る。時間が早く過ぎ去ってほしい。この台風が時間を猛スピードですすめてくれるなら、なおのこと、楽しみである。ところが同時に、迫りくる状況に対しての、恐ろしいイメージが脳裏から離れない。寄生虫にでも乗っ取られたかのように、うごめく不安ばかりを感じるのである。
「困ったわ」
 おにぎりがせかせかと独り言をつぶやいている。網にからまった魚のように、必死でもがくのだが、もう逃れることができない。「怖いわ」とおにぎりがいったけれど、雪だるまには「怖い」ということが何なのか、いまだはっきりとはわかっていない。知っているようで知らない。知らないようで、知っているという感覚。海底のように暗くて見えない、ふだんは感知することのない無意識に保存されているデータが、水面に浮き上がってくるように意識の表面に現れてきて、彼に危険を伝えている。まさにいま体験しているこの心の状態、これが恐怖だよ、と誰かにささやかれているようである。
 判別のつかない奇怪な動物を見るかのように、自分自身から顔をそむけたいと思っている。おにぎりの心に、自分の心を重ね合わせてみると、やはり自分の感じている複雑な思いが、恐怖だということがはっきりとわかった。逃げたい、ここから離れていきたい、けれどもそれは不可能で、やってくる事象に対峙するしかない。それだから、じっとしていられず、どうにかしたいけれど、やはりどうにもできない心境である。向き合うしかない。だが、向き合いたくないのだ。
 これが恐怖だ、とあらためて雪だるまは自覚した。しかし、恐怖を覚えたとたん、恐怖はないといいたくて仕方がなくなる。認めたくない。捕獲された檻のなかの野生動物が逃げたくて暴れだすように、彼もまた、この感情を持っていたくないといって暴れだすのである。とにもかくにも、目をそむけたくてどうしようもない。そうして今度は同じ記憶のなかから希望を持ちだそうとする。楽しい出来事のイメージを。つまり時間というものが過ぎ去り、父と再会できることを想像すると、気持ちが楽になるように感じられるのである。それゆえ、たくさんの希望を持とうとするのだけれど、それは目の前の現実から顔をそむけること、すなわち現実逃避と呼ばれるものになるのだった。
 彼には、自分が現実逃避しているのだとは気づけなかった。ただ単に、自分が望んでいることを考えているだけだ。だが、彼には自由がなかった。すなわち、いま向き合うべきものは目前に用意されている、といわんばかりに、世界が現実を突きつけてくるのである。足にロープを巻かれた囚人のように、逃避することを許されていないのだ。

 台風の接近とともに、満潮が近づいていた。水位がみるみるうちに上昇してきている。うすうすとは気づいていたが、ようやくはっきりと現状を把握してきた。いや、そうではない。いままで受け入れることができなかっただけである。迫りくる波、打ち寄せてくる波が、少しずつ、それでも物凄いスピードで乾いた砂浜を食べはじめている。ゴーっと重苦しい音を立てては、ザブンっと砂浜にかぶりついて、それからザーッと引いていく。まるで大蛇にでも、ゆっくりと飲み込まれていくようである。彼は身の危険を感じた。波たちはお互いに、ぶつかり合っては散り、飛び散っては、またどこからともなく一つのかたまりとなって姿を現してくる。混乱しているのに、あたかもそれが楽しいかのように踊っている。
 砂浜が、大きな口を開けた海に食べられてゆく。さっきまで見えていた砂浜が、もう見えない。そこはもう、海になっている。砂浜が消えていく、と雪だるまは思うのであった。すると、また激しく胸がギュッと痛む。怖い。これが恐怖という感情だと理解する。だが、判明したからといって解消されるわけではない。それどころか、心臓がドキドキと風船のようにますます膨れ上がって破裂しそうである。
 父の姿が脳裏をよぎる。思いだしたのは逃げたいからかもしれない。通りすがりの人間たちから、踏まれないように、ぶつかられないように、ずっと周りを気にして、ときには両手を広げて守ってくれていたことをいくら思いだしても、その父はもういない。ここにはいないのだ。そう思うと、さらに胸が苦しくなって、塩水でできた涙が、ふたたびこぼれ落ちてきそうであった。
 ノッポの鼻が飛ばされた。落ちた割りばしはもう息をしていない。自分のものだった体の一部が次々に消えてゆく。そして、自分だけが取り残されている。雪だるまは思った、自分のものではなかったのかもしれない。でも、もしもそうなら、この自分とは何なのだろうか? おにぎりはいっていた、その両手は、あなたではないの。あなたは砂なのよ、と。だがぼくは、この砂というものが何かも、わかっていないのだ。そう、ぼくは、ぼくのことを何も知らない。
「ねえ、大丈夫?」おにぎりが呼んだ。声はかすれ、さらに細くなって震えている。
 我に返って、雪だるまはおにぎりを見た。
 おにぎりは、寿命が近づいた電球のように、ところどころ途切れるような、はっきりとしない声でいった。
「きっと消えるのよ。  それとも、どこかに連れて行かれるのかしら?   怖いわ、ねえ、わたし、とっても怖いの」
「大丈夫だよ」うそだ。ほんとうはそんなことを思ってはいない。
「そう?」
 うん、と彼は力なく頷いた。
 いまの雪だるまには、おにぎりの気持ちが手に取るようにわかった。自分もまったく同じだったからである。
 おにぎりがいっていたように、ぼくたちは一つで、同じ存在なのかもしれない。そう思うと、自分の怖さよりも、おにぎりのことをずっと心配するようになった。思いがけず、おにぎりの存在そのものが、自分のことのように大切に感じられたのである。
「大丈夫だよ、うん、きっと大丈夫」
 気づかないうちに、そんなセリフをいっていた。今度は、ほんとうにそう思える気がして、そんな自分に驚くのだった。
「何も心配はいらないよ」彼は続けて伝えた。「この時間というものが過ぎ去れば、きっとまた、明るい時間がやってくる。そうでしょう?」
 しかし、おにぎりは何も答えなかった。
 大丈夫。と雪だるまは、今度は自分に言い聞かせた。説得するように。よしよし、よしよし、大丈夫。大丈夫だから、と何度も。灯火を消してはいけない、とでもいうように。

 ポツポツと雨が落ちてきたかと思うと、とたんにザーッと激しい本降りの雨に移り変わった。雨に濡れた砂浜が、黒く変色しはじめる。とめどなく押し寄せてくる荒波に、そしてまた、容赦なく滝のように落ちてくる豪雨に、辺りはあっという間に泥沼化してきた。天と地が等しく闇に包まれている。むしろ、雨粒のほうがずっと白く透明で、明るく見えるのであった。
 もう、細い月はどこにも見えない。いつの間にか消えた。矢で射止められたように、海に落とされたのかもしれない。星もまた同様に、どこにも見ることができなかった。光という光が、とうに消えていた。
 雷が鳴った。その雷鳴は、彼らの体を震わせた。地震でも起こったかのようだ。その地は彼らにとって、地獄のようであった。
 一日の終わりが、夜なのではなかった。彼らの一日は終わっておらず、彼らは生きるということを体験しているのだった。生きるということは、あるいは作られるということは、苦しみ、恐怖を抱えることなのかと彼は疑問を呈した。けれどもその反面、生きているからこそ、おにぎりとも出会うことになった。ぼくたちは同じ生き物で、お互いを思いやることができるのだとわかったのである。
「いやよ」
 おにぎりはいつの間にか泣いていた。体はもう、じっとりと湿って黒く、それが涙なのか雨なのか、判別ができないほどびしょぬれである。
「きっと、海に食べられてしまうんだわ。ねえ、どうして? きっと、他のみんなも同じように食べられて消えてしまったんだわ。そうよ、ぜったいそうに違いない」
 冷静さを失い、あるいは正気を失いかけているのが見て取れた。大丈夫だよ、と声をかけても、耳にはとどかないようだ。おにぎりは、自分のイメージの世界に入っていて、その恐ろしい未来ばかりを見ている。
 その逆に、雪だるまは冷静になっていた。さらなる疑問が浮かび、それについて考察していた。
 なぜ、ぼくたちは作りだされたのか? いったい、何のために作られ、何のために置き去りにされたのか? どうして、海に飲み込まれて消えてしまうのか? おそるおそる足もとを見て、それからまた周囲を見わたす。  辺りは、砂だらけだ。ここには砂しかない。もしかすれば、この砂のすべては、仲間たちの死体なのかもしれない。けれども、もしもそうだとするならば、その崩壊した死体によって、ぼくのこの体は作られたのだ。
 畏怖が、心を硬直させた。顔は青ざめ、涙さえ、落ちてこない。萎縮した胸が苦しい。なんと恐ろしいことだろう、ぼくのこの体は、仲間たちの亡骸なのだ。そしてのちにぼくは、きっと新たな仲間の誕生とともに、彼のその体の一部になることだろう。
 ならば、このぼくとは、いったい何なのか?

 雷雨が激しくなり、容赦なく彼らの体を濡らした。雪だるまよりもずっと小さな体をしているおにぎりは、もう真っ黒で、固く丸められた体型はなんとか維持しているように見えるものの、どこかドロっと、やわらかくなったようにも思われた。けれども、雪だるまは思うのであった、  大丈夫、濡れるということは、ずっと丈夫になることだと。だから心配はないはずだ。
 しかし、彼の推測を現実がすぐに打ち消した。おにぎりの体の下の方が、溶けて広がっているのが見えたのである。ところが、それは下の方ではなかった。仔細によく見ると、頭頂からドロッと流れ落ちているのであった。
 ずっと遠くで壁のように見えていた巨大な波が、運よく彼らの目前にザブンっと落ちて、その余波が彼らの足もとにまでとどいた。おにぎりは全身に塩水を浴びたが、なんとか無事だった。けれども海を見ると、さらに大きな波がすでに出来上がっている。
 砂浜が消えてゆく。海にその場を奪われてゆく。波がかえったあとの、白い泡がぶくぶくとしている。テトラポットはもう役に立っておらず、海に沈んでしまったようだ。彼の脳裏にほんのわずかな希望が浮かぶたびに、ザブンっと激しく落ちる波の音でかき消される。お先は、真っ暗である。文字どおり、彼らには闇しか見えていなかった。
 同じことが延々と繰り返されていた。違うのは、規模が拡大しているということだけであった。
 ザブンっと落ちては、波が引いていった。もう、どの波も足もとにまで到達するようになっている。やがて彼らは、次か、その次か、と思うようになった。

 雪だるまよりも、ほんの少しだけ海に近いおにぎりは、もう覚悟を決めていた。見ると、上半身は雨で、下半身は波によって、とうの昔に型崩れしていた。丸みがあったことなど、誰が知るだろう? 台形のように、地面に接している面積がずっと広くなっている。自分が先に飲み込まれることを、おにぎり本人が一番よくわかっていた。
 おにぎりは、自分を作ってくれた小さな女の子のことを思いだしていた。
「このなかにはね、お魚が入っているの」女の子がいうと、その母親が答えた。「そう? どんなお魚?」
「いつも食べているの」
「シャケのこと?」
「うん」
「ゆりちゃんは、お魚が大好きだからね」
「お母さんのおにぎりが好き」
 そうして、母親の顔には笑みがこぼれるのだった。
 作られたおにぎりは一個。たったの一個だけ。いつも、ゆりちゃんはおにぎりを一個しか食べないからだ。その一つのおにぎりを、大切に手に持っていた。わたしを宝石のように抱きしめていた。けれども、夢の時間はシャボン玉が割れるようにパッと、はかなく終わってしまった。
「じゃ、そろそろ、ちゃんとしたおにぎりを食べよっか?」
「うん」
 砂浜に正座していた女の子は、あっさりとわたしを手放した。両手から落ち、彼女の小さな太ももを転がって、ぽとりと砂浜に落ちたその目の前で、母と子は立ち上がると背中を向けて、そのまま歩いて行った。一度も振り返ることはなかった。わたしはおにぎり。でも、本物じゃない。親子の心のなかのイメージを見ると、本物のおにぎりは、ずっと、ずっと輝いて見えた。色彩豊かで、艶々とした白いお米がキラキラと光をはなっていた。わたしとは、ずいぶんと違う。この体の色はにごっているよう、乾き、ザラザラとしていて、味もなく、香りもなく、けれども形だけは、同じように丸かった。そう、丸いだけ。わたしは偽物。けれども、名前はおにぎり。そのほかの名前を与えられはしなかった。わたしのなかにあるのは美味しいお魚じゃなくて、心だ。
 中身が心であると知っていたなら、あの親子はわたしを置き去りにして行っただろうか? この心を置き去りに。
 人間の母親が、ぎゅっと強く、それでいて優しく大切そうに、わが子の手を取る姿を見ていた。足並みをそろえ、お互いの微笑みを見て、一緒に歩いていくその姿を。
「今日のおにぎりは?」空を仰ぐように母を見上げて、女の子が尋ねる。
「もちろん、大好きなシャケよ」
「やったー」
 砂のおにぎりは、記憶のなかの映像を、あたかも映画を観るようにながめていた。
 やがて嵐の夜が明けて、澄み切った空気の向こうに朝日がのぼると、「ねえー」と背後から声が聞こえた。振り返ると、母である小さな女の子が、おぼつかない足取りで走りながら向かってくる。思わず、うれしくなって瞳がにじんだ。迎えにきてくれたのだ、大切に思ってくれたのだと、しみじみ感じて心が震えた。けれども、それは夢であった。映画は途中から、自分で創作したものに変わっていた。我に返ると、ザブンっと音を立てて、大きな波が落ちた。
 人間と、砂であるわたしたちとの違いは何だろう? 砂であるわたしも、心を持っている。口はないけれど、心を通じて会話をすることができる。彼らには口があって、わたしたちにはない。それだけだろうか? この体は砂でできているが、彼らはそうではない。けれども、体の素材が重要なのだろうか? 砂で作られたあらゆるものは模造品で、そんな体はいつでも投げ捨てられるものなのだろうか? それならば、どうして人間たちはわたしを作りだしたのだろう? 捨てるために、作ったのだろうか? こうして生まれたわたしという心は、これからどうすればよいのか? ただ押し寄せる海に飲み込まれ、そうして消えてゆくわたしとは、いったい何なのか? この生命に、どのような意味があるのだろうか?
 砂のおにぎりの心には、憎しみなどなかった。ただ、やり場のないかなしみと、ある種のもどかしさに暮れていたのである。女の子は、きっと何も悪くない。なぜなら、彼女の心はとても楽しそうだったから。わたしのことを大切に思って、何度も、何度もぎゅっと手のひらで抱きしめてくれていたから。それでも、彼女は本物を選んだ。わたしははじめから偽物以外の何物でもなく、ただいっときの代用品でしかなかったのだ。
 おにぎりは泣いた。自然に落ちてくる涙を、自分ではどうしようもできなかった。瞳は涙でいっぱいになり、視界の光景がにじんで見えなくなるほどだった。きっと、見えても見えなくても、同じことかもしれないと思う。いま見ているこの世界は、いっときのはかない夢でしかないのかもしれない。少女にいっときだけ、素敵な夢を見させてあげられる存在  それがわたしだ。そのために作りだされた、いっときの特別な存在。そんなふうに思うと、砂のおにぎりは自分が優しくなれる気持ちがするのであった。少なくとも、あの女の子に笑顔をもたらすことができたのだから。  きっと、無駄な存在ではなかったのだと思う。

 豪雨が痛みを与えるほどに、砂浜にたたきつけられている。雪だるまがおにぎりに目をやると、もはや砂とおにぎり、あるいは海と砂浜の境界線、その区別というものを見ることができなくなっていた。
「おにぎりさん。ねえ、おにぎりさん!」
 夢から覚めたように、おにぎりが彼に振り向いた。
「もう時間がきたわ。次の波。それでわたしはここから消えてしまうのよ」
「そんなこと、いわないでよ」彼は叫ぶように伝えた。引き止めるように、あるいは消えていくおにぎりに自分がしがみつきたかったのかもしれない。胸の奥が痛い。その痛みを掻き消すかのように声を張り上げる。「ぼくを独りにしないでよ。ねえ、ずっと一緒にいるって、いったじゃないか」
 けれども、返事はなかった。
 おにぎりは、次の波だと確信していた。  どのような知識や情報を得ても、自分というものがどこからやってきて、どこに行くのかを知ることはできない。わたしはおにぎりと呼ばれたけど、でもおにぎりではなかった。わたしは砂だけど、もしかすれば砂ではない、ということもあり得る。なぜなら、この体は、わたしの思いどおりには動かないから。
 わたしは、砂のなかに入った心。そしてきっとこの心が、人間のなかにも入っている。そう信じたい。だって、大切なものは、体ではなくて心だと思うから。
「きっと、どこにも行かないんだ!」雪だるまは身が震えた。脆弱になり、しわがれてきた声で、それでも彼は必死に声をかけた。「どこにも行かなんだよ!」
 そう? と、おにぎりは自問した。
 白い絵の具を水で溶かし、それを透かすように塗ったような。
 うっすらとした霧が、早朝の山々や渓谷にかかっているような。
 雪だるまの声がそんな、消えそうなほどの、どこかずっと遠くで聞こえているように感じられた。
 その静けさのなかで、そう? とまた自問した。ほんとうに、どこにも行かない?
「ああ、そうだよ」彼が大げさなほどの微笑みを見せる。「だって、砂がここにあるんだから!」
 ふと、思いもよらず、おにぎりは安らぎを覚えた。安堵の香りがただよい、うっとりするほどだ。そうかもしれない、と思う。彼の言う通りかもしれないと。
「仲間たちは、ぼく自身だ。きみ自身だ。どこにも行ってなどいないし、消えてもいない」
 そうかもしれない。けれどもそれは、砂という素材、形だけのもの。わたしたちは、ほんとうは砂ではないかもしれないのだ。

「危ない!」と雪だるまが叫んだ。
 波だ。

 涙   あふれて、にじんで、ぼんやりとしか見えない。
 波がひいた場所に、丸い物体の姿はなかった。
 おにぎりの姿がない。どこをどう捜してもない。あっけない。あまりにも、あっけない。何事もなかったかのように、ぶくぶくと泡だった白い波だけが残されている。餌を食べ終えた大蛇のように、波がうねりながら、そそくさと身をひいていく。
「うそだ!」彼は泣きじゃくった。「いやだ、いやだよ、そんなのはいやだ!」
 何度叫んでも、おにぎりの声はもうしない。嵐の勢いはさらに増している。猛烈な突風が吹き、雪だるまの頭が落ちそうになった。彼の頭はもう丸くはなかった。気づかぬうちに、おにぎりと同様、原型を失っていたのである。頭も体もドロッとして、雪崩の起こった山のようにもろい。息が絶えたように、かろうじて残っていたもう片方の右腕も、ついにぽとりと落ちた。雪解けと変わらない。けれども彼にとっては、そこにうきうきするような春が待っているわけではなかった。
 時間が来たよ、と知らせるチャイムのように、ボトボトと、泥になった体の一部が急激に落ちていった。情けなどなかった。みっともない姿に変わり果て、見るもむざんとしかいいようがない。もう、おにぎりの声を聞くことはできなかった。声をかける相手がいない。思えば、どれだけの時間を一緒に過ごせただろう。時間は待ってはくれない。それどころか、時間は何もかもを奪い去っていくようである。
 二人の世界が終わってしまった。父と同じように、おにぎりもまた、自分を置いてどこかに行ってしまった。そして、きっと次の波で、ぼくも消えてしまうだろう。そうしたら、また会えるだろうか? 父や、おにぎりに会えるだろうか?
 きっと、どこにも行かないんだよ。だって、砂がここにあるんだから。そう伝えたけれど、むなしさばかりが込み上げてくる。たしかに砂はここにある。でも、誰もいないのだ。
 と、そのとき、どこからともなく現れたイメージが脳裏をよぎった。  真っ白な地面が、陽光をあびてキラキラと光っている。これは砂浜でもないし、水面が光った海でもない。星のようにチカチカと、雪の結晶が無数に、静止しそうなほどゆっくりと穏やかに降り注いでいる。そのダウンロードが、なぜ起こったのかはわからなかった。誰の記憶なのか、わからない。静けさよりも静かな、物理的な音の領域とは異なる厳粛な沈黙の香りが辺りを満たしている。
 一面の銀世界。真っ白な宇宙にでもいるかのよう。雪の帽子を仲良くかぶった山々が遠くに見える。ここは森のようだが、それでもひらけている。誰もいないようだ。さみしげな樹木の細い枝に、ぽたりと、たった一つ降り積もる雪の音が、世界中に響きわたるほどの静寂  。霧のように白い息がうっすらと世界に溶け込む。そうか、と思った。誰もいないのではない、ぼくがいるのだ。見上げると、一羽のワシが飛んでいた。冬景色を背景に、どこかへ向かって飛んでいる。その姿がとても強く、たくましそうに見えた。
 映像が変遷した。丸められ、形となって、積み重ねられ、そして雪だるまが完成している。雪だるまには口があったけれど、ぼくは何も発することができなかった。何かがおかしい、そう思った。が、それはすぐに判明した。雪だるまを見ているのが、ぼくだったのである。誰かが背後から声をかけてきたけれど、それが誰かはわからなかった。「そろそろ行くぞ」と聞こえた。一瞬だが、大きな山小屋と下に伸びたロープウェイが視界に入った。ここはどこ? ぼくはいったい? けれども、そんなふうに思案したとたんに、ふたたび映像が切り替わった。
 雪だるまが見える。だが、それはいま見ていたものではなかった。なんといっても、両手に  それは木の枝だったけれど  手袋がはめられている。それに、ニット帽まで被っているのだ。ところが、今度は自由に視点を移すことができない。定点カメラのように、決められたもの、それは雪だるまだったが、それ以外に目を向けることができなかったのである。ところが、よくよく冷静に考えてみると、どうやら映像が流れはじめたときからすでに、自分で視点を動かしていたのではないということがわかってきた。
 ぼくは自動的に移り変わる映像をじっと見ていることしかできなかったのである。時が過ぎ、はじめに手袋が取られ、次にはニット帽が消えていった。その頃にはもう、体は見るからに縮んで、雪が溶けてきているのがわかった。やがて強くなった太陽の熱でぶざまな姿となって、土埃やなんかで灰色に汚れていた雪だるまは、最後には跡形もなく消えていった。春が来たのだった。
 ぼくは鏡が割れたような気分に陥った。
 けれども体験は、これで終わることがなかった。
 不思議なことに、今度は見ている対象  雪だるまそのもの  になった気分に襲われた。もう、溶けて消えてしまったのにもかかわらず。突如、雪だるまから見ている視点に変わった。ぼくの目の前には湿った芝生の庭があって、柵の向こうには道路があった。路肩にまだ少しだけ汚い雪が残っているが、アスファルトがしっかりと顔を見せている。背中のほうに温もりを感じた。それは気温として測ることのできない、家族団欒の温もりであった。夕暮れを見ているうちに、ぼくは泣いていた。
 朝がきて、昼になるころには、ぼくはすっかり溶けて、水となった。それから今度は蒸発して、自由に空を飛んだ。スズメやツバメ、タカやワシの羽に触って、遊ぶのが楽しかった。そう、ぼくは消えることがなかった。ぼくはただ、運ばれているだけだった。  いや、これはぼくではない。これが雪だるまだ、と彼は我に返った。

 津波のように巨大な波が、砂でできた雪だるまを激しく直撃した。即座に、その衝撃で頭が落ちて、ゴロリと眠った。すでにそこはシーツのように薄い海になっていて、ビシャッと水しぶきが飛んだ。もはや頭とは呼べなくなっていた頭。
 すぐに次の波がやってきた。その波は彼の頭と体を持ち帰るようにして、海へと引きずり込むのだった。
 砂の雪だるまは、跡形もなく消滅してしまった。
 光はとうに消えている。雷雨だけが世界に存在しているようだ。満潮に達した大海が、勝利の雄叫びを上げるかのように、今年一番の巨大な波しぶきを見せた。そうしてようやく、徐々に波はおさまり、長くもはかない一日が終わりを迎えるように、うっすらと東の空が明るくなるのであった。そう、新しい一日のはじまりとともに。

 真夏の海と砂浜は、裸の人でごった返していた。強い日差しが、白い砂浜を焦がすようだ。人でにぎわうその砂浜では、ビーチボールやらフリスビーやら、あるいは幼い女の子はおままごとをして、別な場所ではわんぱくな男の子が両親とともにスイカ割りをして遊んでいる。その近くで、いまぼくは、父の手によって体を作られている。せっせと、バケツにくまれた塩水を使いながら、ていねいに固められている。父はぼくのことを、「雪だるま」と呼んでいる。どうやら、ぼくの名前は雪だるまというらしい。
「なあ、タカシ、なんで真夏に雪だるまなんだ?」父の、父が訊いた。
「いいじゃん」父が無邪気に答えた。
 そこに、意味も理由もないらしい。ただ父は、雪だるまが作りたかっただけのようだ。砂でできた、雪だるまが見たい。ただそれだけのこと。
「できた!」
 父の顔がパッとはなやかに光った。砂だらけの両手をパンパンとたたき合わせて不要な汚れを落とし、立ち上がると膝についている砂も手ではらった。満面の笑みがこぼれ、見られているぼくもまたうれしくなった。父の表情は、いっとう誇らしげである。
 けれども、それも束の間であった。
「危ないっ!」奇声が鳴った。
 ビーチボールが飛んでくる。ぼくに近づいてくる。それを取ろうとして、どこからか現れた人間がぼくにぶつかった。記憶は、そこまでしかない。ただ、ほんのわずかばかりそのあとに、もうろうとする意識のなかで聞いたのだ。父が、かなしみのあまりにすすり泣いているその声を。体を震わせながら、か弱い声で悔しがるのを。
 様子を見ていた大きな父が、小さな父にいった。
「泣くんじゃないよ。また作ればいいじゃないか。まだ帰るまでには時間があるんだから。な、そうだろ? もう一回、作ろう」
 そうして、ぼくはその思い出を、胸の内にしまい込むのだった。この記憶(メモリー)が、のちの誰かにダウンロードされるようにと。

 浮かんでは消えた。おぼろげな思い出が、気泡のように。ぼくは夢を見て、その夢から出ては、すぐにまた違う夢に入った。無数の夢があった。長い夢も、刹那的な夢もあった。ぼくは二度、作られたようだ。もしかすれば、三度か、四度かもしれない。ぼくはときには、おにぎりでもあったようだ。
 海中はしんとしている。母親の胎内にいるかのように、安堵している。ぼくは海でもあった。体のなかを、小魚たちが楽しそうに泳いでいる。さらに小さなプランクトンを食べている。巨大なクジラや、一見怖く思えるサメも、ぼくが養っている。暗い底には、海の森があった。海藻がゆらゆらとダンスを踊っていて、サンゴが拍手をしている。そのサンゴのもとに小魚がやってくると、いつもきれいだね、と声をかけていた。家を借りるためのお世辞でしかなかった。ぼくは海藻でもあり、サンゴでもあった。だから、みんなの気持ちが理解できるのだった。

 ぼくが話している相手は、ぼく自身だった。
 きみは、ぼく。
 ぼくは、きみ。
 だから、ぼくはきみを思いやることができるし、大切にすることができるし、きみの立場になって物事を考えることができる。

 人間たちが、ぼくの体のなかを泳いでいる。一生懸命に、あるいは楽しそうに、ときには泣いている子供だっている。まあ、仕方がない。そんな時だってある。それぞれの声が、ときどき違うことや、正反対のことをいってぶつかっているように思えても、ほんとうは、そうではないかもしれない。なぜなら、どんなときも、ぼくの一部であることには変わりがないから。誤解やすれ違いで起こってしまう出来事  ああ、頭が痛い。ほんとうは、鏡で自分を見ているだけなのに。

 ぼくはたくさんの記憶を持っていた。人間の手によって、他の人間に投げつけられることもあったし、ぼくの体をきれいにしようとして、人間たちが砂浜に転がるゴミを拾っている姿を何度も目にしたことがある。ぼくはときには海で、ときには砂浜だった。数種類の鳥になったこともある。例えばワシだ。
 凍えるように寒い冬空を飛んでいた。羽毛のおかげで、寒さはほとんど感じないけど、空腹は覚えていた。冬には、餌が減ってしまう。まだ森の茂みで、秋に落ちた木の実を見つけることができるかもしれない。虫やミミズも隠れているだろう。雪がちらつく広大な空を、風を切るように飛ぶのが好きだった。自由気ままだが、何も毎日遊んでいるわけではない。夏よりも、厳しい冬のほうが好きだった。どうしてかはわからないけど、自分がずっと力強く感じられたのだ。
 一瞬、ぼくはポリ袋になったこともある。一瞬といっても、五日間だ。人間たちが、ぼくを必要としていた。けれども、使う人によっては乱暴に扱われ、無造作にゴミ箱に捨てられた。風に吹かれて簡単に飛ばされてしまうし、すぐに破けてしまって、申し訳なくも思うけど、でもそれがぼくだ。そんなぼくでも、人のために役立っている。役立つことが、うれしかった。もしかすれば、そんな気持ちを学ぶことができたのは、ポリ袋になったおかげかもしれない。
 学ぶというのは、相手の立場になって考えてみるということだ。そうすれば、誰でも相手に対して、優しくなれる。なぜなら、その相手とは、ぼく自身だから。いったでしょう、ほんとうは、鏡で自分を見ているだけなのに、と。
 ぼくは記憶という無限に大きなポケットから、ある日のおにぎりの思い出を取りだしてみた。そのとき、ぼくは女の子だったようだ。
 わたしは丸い形に作られて、子供の小さな両手でしっかりと、何度も固められていた。わたしのなかにはシャケというものが入っている、そんなふうに、お母さんは想像していた。母の記憶を探ってみると、お魚が見えた。ツヤツヤとして油がのっている。それを食べると、母はうれしくなるのだった。シャケが入っていなかったけれど、それでも母は大事にわたしを手に持ってくれていた。食べることはできないけれど、だからこそ、ずっと見ていられる、そんな気持ちが母の心に生まれているのがわかった。うれしかった。見られていること、大切に思われていることを、しみじみと感じたのだ。ときには涙が油のようにツヤツヤと、あふれ出てくるほどだ。わたしのなかに、ほんとうにシャケが入っていたのかもしれない。

 嵐がやってきて、天にまでとどくような背の高い波に飲み込まれたとき、意外にもわたしは幸福を覚えた。解放されたとわかったからだ。ようやく、狭くるしい部屋から出てきた感じ。それから海と一つになった。わたしは、海でもあった。荒れ狂っていて、厳しく、そんな海がどうしようもなく怖く思えていたのに、その海と一つになると、優しさと思いやりを感じた。むしろ、それ以外の何も感じることができなかった。海は、悪者ではない。ザブンっと高波が激しく落ちているのに、その心は怒っているわけでもなく、天罰を与えようとしているわけでもない。それは、冬という季節が寒いからといって、人に危害を加えようとしているわけではないのと一緒だ。冬という季節は、無駄に存在しているわけではなくて、冬には冬の仕事というものがある。人が、夜には眠り、休息を取らなければならないように。

 自由に時間を駆けめぐることができるぼくは、今度は、ある日のタカシを思いだしてみた。ぼくはタカシだった。
 信号が赤色になって、車が止まった。後部座席に乗っていたぼくは、疲れてしまってうとうとしていた。眠っているのか、起きているのか、自分でもよくわからない。
「そうだ」助手席の母が思いだしたようにいった。「キャベツを買って帰らなきゃ。ひき肉と玉ねぎはあったけど、キャベツはなくなっていたと思う」
「じゃあ」前方を見ていた父が、ちらりと母を見ていった。「スーパーに寄って帰るか。ハンバーグを食べるときには、キャベツの千切りも一緒に食べたいからな」
 おもむろに母が振り向いて、ぼくを見た。あらら、眠っているわ、という感じの言葉をいったけど、あまりよく覚えていない。
「あんなに大きな雪だるまを、二回も作ったんだからな。大したものだ」父がバックミラーを覗き、寝顔を見ながら感心するようにいった。
 現実と夢のはざまで、雪だるまの声が聞こえてくる。
「作ってくれて、ありがとう。楽しい思い出を、ありがとう」
 何も不思議に思わなかった。それが当たり前のように、ぼくはうれしくなった。でも同時にさみしさも覚えて、家に持って帰りたかったな、と後悔した。帰るのがいやだったし、家に連れて帰りたかったのだ。けれども、持って帰るわけにもいかないのは、よくわかっている。そんなことは、できやしないのだ。
 ふいに、雨が降ったら、どうなるだろう? と心配になった。
 たしか、今夜は台風がやってくるとお母さんが朝にいっていたのを思いだした。
 嵐が来たら、ぼくの雪だるまはどうなってしまうのだろう?
 心が落ち着かなくなった。台風なんか、やってこなければいいのに、と思う。来年また、あの海に行ったら、雪だるまはそのままの形で残っているだろうか? もしかしたら、ずっとそのままの形で残っているかもしれない。そうして、ぼくが来るのを待っていてくれるかもしれない。おぼろげな夢のなかで、そんなことを想像していた。いつの間にか車はスーパーの駐車場に滑り込んで、空いている場所を探していた。
 タカシは、雪だるまが好きだった。なぜ好きなのか、本人にもわからなかった。いつかの冬にはじめて作ったとき、ロボットを作ったかのように感動した。自分の手で、人間のようなものを作ったのだ。いまにも話してきそうだし、足もないのに、歩きだしそうだった。ぼくたちは会話ができる、そう思った。雪は冷たい。手を凍らせるようだけれど、胸の内はほかほかと温かくて、思いがけず、どこからか力がありありとみなぎってくる。家の玄関の前に作ったその雪だるまは、冬の家の門番のようであった。
 秋に折れた短い木の枝が、ぷっくりと太った体の両側に伸びており、その先には使い古された手袋がかけられていた。おさがりのニット帽まで被っている。
「あたたかい? あたたかいだろう?」
 ぼくは愛でた。
 それからぼくは逆に、そのときの雪だるまの記憶を思いだした。
 うれしさのあまり、十メートルくらい飛び跳ねたのを、彼は気づいていなかった。けれども、ずるりと頭から帽子が滑り落ちて、「あれ?」とタカシは首をかしげた。「なんで帽子が落ちたんだ?」と。だって、心のなかでは天にまでのぼる思いだったから。
 次から次へと、夢が移り変わっていった。花火のようにパッと現れて散るものもあれば、観覧車に乗って一周するくらい、なつかしい景色をじっくりとながめ続けているものもあった。記憶に蓄積されているイメージが、現れては消えてゆく。あたかも寄せては返す波のようであった。
 実際に体験したことなのか、あるいは、ただの空想でしかないのか、あいまいになっていった。どこからが現実で、どこからが夢なのか、判別がむずかしい。
 ぼくは実際にタカシだったかもしれないし、そうではなくて、タカシという子供が、ぼくの夢のなかの登場人物だっただけなのかもしれない。

 真夏の海の砂浜が、人でごった返している。日差しは強く、白い砂浜を焦がすよう。素足の裏が熱くて痛い。ワイワイと騒ぎ、はしゃいでいる多くの人間たちがいる。楽しそうだ。水しぶきがいたるところで上がり、きゃー、わー、という奇声に近い歓声が同じように飛び散っている。いつもと変わらない。毎年、同じ風景のように思える。けれども、今日という一日は、もう二度と来ない。

 ぼくはいま、太陽である。
 地球に光を注いでいる。悲しんでいる人、苦しんでいる人、困っている人、悩みを抱えている人、うれしそうに遊んでいる人、ケンカをしている人、一生懸命に仕事をしている人、病気の人、健康な人  どんな人にも平等に、分け隔てなく光を注いでいる。ぼくを見ることができない人は、この地上には誰もいない。誰でも、空を見上げれば、ぼくがいる。ぼくは差別をしないし、色や形で判断をしたりしない。大きいから、小さいから、そんな区別をして争いをしない。だから、そんなぼくに与えられた仕事が、太陽なのだ。
 砂浜の近くには森があった。生い茂る木々の葉の木陰で、鳥たちが休息している。昆虫や植物たちも、ゆったりとくつろいでいる。動物は散歩をしており、ミミズが大地を豊かにするために仕事をしていた。タンポポが咲いていて、そこに白い蝶々が飛んできて、静かに止まる。羽を休めると同時に、花の蜜を吸う。どんなことにも無駄がなかった。ミツバチがせわしなく飛んでおり、そのおかげで受粉が行われ、野菜や果樹の実ができあがる。ミツバチのおかげで、人は美味しい野菜や果物を食べることができるのだ。
 ふと、砂浜に視線を戻すと、一人の子供の姿が目に入った。少しだけ、体の大きくなったタカシ。彼がいる。去年、雪だるまだったぼくの父。
「この海に来るのも、最後だな」タカシの父がいった。
「そうね」母が答える。
 その二人の前で、タカシは今年も砂の雪だるまを作っているようだ。
「いやだよ、引っ越しなんて」不満げに、タカシがぶつぶつと文句をいう。
「仕方がないでしょう? お父さんの仕事なんだから」母が説得するようにいった。
「海は遠いな」父がこぼした。
「どういうこと?」タカシが手を止め、振り向いて訊いた。
「今度、引っ越すところからは、海が遠いのよ」母が教えてくれた。「ずっと内陸のほうだから」
 タカシは視線を戻すと、肩を落としてふさぎ込んだ。
 海を見た。ずっと遠くをながめた。一艘の船が止まっている。この海は、どこまで続いているのだろうかと想像してみる。発作的に、もしも自分が魚になったら、海の果てまで行けるかもしれないと考えたけれど、すぐに思い直してやめた。魚になんかなりたくないと思ったのだ。船に目をやった。止まっているようで、やっぱり、動いている。船に乗って行けばいいのだ。ところが、それではどこかすっきりとしない。納得がいかない。イルカなら、いやサメになるなら、まだいいと思った。泳ぐのは苦手だ。でも、いつかは泳ぎたいと思っている。泳げるようになりたいのだ。発作的に考えたのではない。もしかすれば本能かもしれなかった。いくら考えても、はっきりとはしない。もんもんとして、答えが出ることはなかった。そもそも、答えなんか、どこにもないのかもしれない。
 視線を落として、タカシは作業を再開した。黙々と、熱心に手を動かして、わが子を育てるように、自分自身と向き合っている。
 やがて、砂でできた雪だるまが完成した。去年より、ずっと丸みがきれいで、目も鼻も立派、両腕もついているし、なんといっても、今度は口が作られている。タカシはわが子を愛おしむように雪だるまを見つめていた。その様子を見て、ぼくにも笑みがこぼれた。太陽の光が、燦々とかがやく。まぶしくて、誰も見ていることができないくらいに。
 ぼくは宇宙を移動している。地上から見て、ぼくは斜めに移動していった。そうして、夕暮れが近づいたときだった。
 おもむろに、タカシが、ありがとう、と雪だるまに伝えて、それからゆっくりと頭を持ち上げて、地面にそっと下ろした。
 両親は、奇妙な現象でも目の当たりにしてしまったかのように、体をこわばらせた。怪訝に思った。いったい、何をしているの? と。
 タカシは、自分で作り上げた雪だるまを、そっと壊していった。痛くないように、そっと。かなしみを感じないくらいに、ゆっくりと。切なくならないように、慎重に。
 母は黙っていられなかった。「どうしたの、どうして壊しちゃうの?」
 すると、タカシはこのように答えるのだった。
「このままにして、置いていけないんだよ。もとに戻していかなきゃ」
 両親には、その意味がわからなかった。もしかすれば、タカシ本人にも、よくわかっていなかったのかもしれない。
 だしぬけに、まぶしい光が砂浜を照らした。夕焼けが、黄金色に見えた。真昼の陽光よりも、ずっと愛に満ちているようであった。
 雪だるまは、その丸みを徐々に失い、最後には、何事もなかったかのように平らな砂浜と一つになった。誰も、つい先ほどまで、ここに雪だるまがあったなんて想像もできない。何かが消えて見えなくなってしまうという出来事にも、さまざまな経緯があるものだ。
 そこは、白紙のように何もない。
「よし」タカシはいった。去年より、ずっと力強い声だ。
 今年の夏に、タカシがこの海にやってきたとき、もう去年の作品はどこにもなかった。すっかりと消えて、思い出さえ、まぼろしのように思えた。どこに消えたのだろう、と思ったけれど、答えは自分でもよくわかっていた。
 彼は、少しだけ大人というものになっていた。タカシにとって、自分で作り上げた雪だるまを、自分の手でもとの砂浜に戻すことは、優しさ以外の何物でもなかった。冬に雪だるまを作り、春が近づくにつれ、雪だるまが汚れて、ダラダラとむざんに溶けていく。みっともなく、かわいそうに。これまで気にしていなかった現象が、目に止まった。雪だるまが壊れていく姿を、見たくなかったのである。
「じゃ、そろそろ帰るか」タカシの父がいった。
「うん」タカシが立ち上がる。
 そして、彼は砂浜に向かって、声を置いていくのだった。
「さあ、一緒に帰ろう」
 彼にとっては、形はもう重要ではなかったのである。




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