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2024/04講話

「私」という想念のない「わたし」、それが真我です。
在る=実在
それが真我です。
無言で、どのような主張もしていないにもかかわらず、完全であり、完璧であり、唯一無二の真理である”それ”
”それ”があなたです。
「私は〇〇である」という認識が、自我です。
「私は体だ」は自我であり、「私はあれこれだ」も「私はああだこうだ」もまた自我です。
「私は傷ついた」とあなたがいくら真剣に思ったとしても、真我であるあなたは何一つ傷ついてはいません。
真我は永遠であり、不変であり、それゆえ傷つくことなどありません。
ここに完全なる平安があります。
これが知識であり知恵です。決して、思考による情報ではなく。
そして平安がある時、幸福もまた在るのです。
決して、思考による蓄積させた情報によって、ではなく。
人は、得た情報によって幸せになるのではありません。
思考による知識、情報の蓄積、過去の記憶によって幸福になるのではないのです。
記憶は生きていません。
記憶に生命はありません。
生命がないものは、そもそも存在などしていないのです。
実在しないものだからこそ、情報、記憶があなたを満たすことはできないのです。
情報が、あなたを平安にすることもないし、幸福にすることもありません。
むしろ、情報に囚われると恐れが増すことでしょう。
真我には誕生も死もありません。
生と死は意識の一つの運動であって、それらを超えているものが真我です。
あなたは思考、思考により発動した感情、体、生と死を超えている存在です。
真我、キリスト、実在、神、ブラフマン・・・なんという名称であろうとも、実際には”それ”に名前などなく、対象化することもできません。
”それ”は対象ではないのです。

多くの人が、これらのことを思考によって記憶にしてしまい、「私はわかった」と言って、ただただ情報を崇め、いまだに真理を見出すことができません。
「私はわかった」というものは、いったい何なのでしょうか?
あなたはそれではありません。
完全なるもの、すなわち真理を言葉で知ることはできません。
”それ”は言葉を超えているからです。
「私はわかった、私は知った」とは無知です。
知る、知らない、これらを超えているものが真我であり、真の知識、知恵なのです。

真理を言葉で伝えることはできません。
真理は言葉を超えているからです。
その扉の前まで言葉によって誘導することはできますが、言葉の役目はそこまでです。
けれども、直接的なやり取り、それは言葉を超えたものですが、そのやり取りの中で、限りなく直接的に感覚を伝えることはできます。というのは、そもそも私たちは一つであり、あるいは別な表現をするなら、テレパシーによって自然に共鳴することができるからです。これは”感覚”のことです。

「考えるな、感じよ」という有名な言葉がありますが、まさに、その通りです。
頭で理解しようとしても、到底無理なのです。
自我は、真我に到達できません。
自我が消える時、そこに真我、実在があるのです。
そして、”それ”が在ることを認識するなら、自我はもう重要ではありません。
それは、そもそもどこにも存在などしていなかったのですから。

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