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電気椅子星人のアイデンティティ

 小さい頃、日本における死刑は電気椅子で執行されると思っていた。
 月極グループの駐車場とかHello警報みたいな勘違いではなく、純粋な事実誤認である。
 具体的なイメージもあった。真っ白な部屋の真ん中に椅子が置いてある。天井はあまり高くなくて、奥に扉があって、反対側にガラス窓がある。もちろんマジックミラーになっていて、隣の部屋で執行官がボタンを押す。
 ぽちっ、びびびびび、おしまい。

「え、絞首なの?」
 そう気づいたのは中学生になってからだったと思う。調べてみたら電気椅子というのは全身の血が煮えたぎって大変なことになるらしい。どうせ死ぬことに変わりないとはいえ、準備して片付ける側も仕事でやるのだ。別に絞首刑が美しいわけではないが、少なくともある種の経済性はある。
 それ以前の認識がどこでどのように生まれたのかよくわからない。そもそも小学生の死刑に対する認識は「すごく悪い奴がなる」くらいが適当だと思うし、その執行方法なんて「知らない」で全く問題ない。知と不知の2択から外れて、誤った知識を得ているのはどうしてだろう? たぶん細かな経験の断片を継ぎ合わせたらそうなったんだろうけど――『踊る大捜査線』で小泉今日子演じるサイコパスが拘束されていた空間のイメージが「真っ白な部屋」になっているとか――どこまで行っても推測の域は出ない。怪傑ゾロリか両津勘吉が電気椅子で殺されかけていたのかもしれない。
 こういうのは僕に限らず、一般に人はそれなりの頻度で(とりわけ日常生活と関係ない分野においては)大きく間違った知識を抱えながら生きているのかもしれない。日本の義務教育(およびほぼ義務と化している高等教育)は、一般人の概ね起きて飯食ってクソして寝るだけの生活には過剰な知識を与えているのだから、そこで何かしらの誤解が生じたとしても大抵は修正の機会も必要もないのである。大抵の人は身内に死刑囚はいないし、絞首刑の是非なんていうのは死刑反対論の中でもかなり限られた領域の戦場だ。処刑方法だったり「複数の担当官が同時にボタンを押して心理的負担を分散する」みたいな死刑豆知識よりは、それこそ積立NISAに詳しい方がよっぽど重要である。

 でもここで重要なのは、ある一時期の僕が間違いなく「電気椅子で死刑が執行される日本」に生きていたことだ。その知識、というか事実に僕は確信を抱いていた。青は進めで赤は止まれ、月は東に日は西に、そのレベルの常識として死刑囚たちは電気椅子に散っていたのだ。
 だから僕は「絞首刑がある日本」を知って少なからず困惑したし、「え、それって前までは違ったよね?」という思いを未だに捨てられない。気付かないうちに事実がコロッと書き換えられてしまったような気がする。
 あるいはこんな解釈をしている。つまり、ある一瞬から僕は生まれてきたのと違った(そしておそらくは間違った)世界に紛れ込んでしまったのだ。死刑の手法の違いはその世界を隔てる数多の差異のうちの一つでしかなくて、たまたま小学生の身で死刑についての知識を蓄えていたおかげでそれに気付くことができたのだ。この世界の住人達の大半は絞首刑星人かもしれないけど、一部には僕と同じ異邦人(電気椅子星人)がいるのだろう。
 ということで、僕が仮に重い罪を犯して(「関東平野を更地にして一切の生命体を消滅させた」とかがいい)死刑になるとしたら、その時は故郷の星に帰ってきちんと電気椅子で死にたいと思う。血が煮えて困るなんて所詮は絞首刑星の熱力学と人体法則でしかないのだ。

 ところで安楽死の時はガスかなんかでスッと死にたいですね。別に宗教的にアウトなわけでもないし、むしろハラキリの国なんだから早くそういう設備を作ってくれればいいのに。
 


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