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【インタビュー】所有者の視点から見た文化財 vol.2 -滋賀県湖南市 国宝 長壽寺-

琵琶湖の南、滋賀県湖南市にある阿星山 長壽寺(あしょうざん ちょうじゅじ) 。
奈良時代創建の長壽寺は、いまでも地域にある50軒ほどの信徒さんとともに、世代を超えて年中行事を継承したり、日々境内地の管理を行ったりと、生活の中で文化財を伝え続けているモデルケースのようなお寺。
外から見ると桃源郷的な印象をもちますが、その中身はどうなっているのでしょうか。
今回は、代々お寺を受け継がれているご住職の藤支良道さんに、お話をうかがいました。

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長壽寺は長きにわたって、檀家さま方をはじめとした地域の歴史的文化的なアイデンティティとなっています。ご住職としては、このお寺をどういう場だと捉えていますか?

村の人と、お参りのときなどにお話しすると「お寺は村のシンボル。だから村として団結して守っていくものだ」という言葉を聞きます。
それこそ50代ぐらいの現役世代の方が、それをおっしゃるのが、いまでは珍しいこととおもいます。この方々は村の長老世代ではなく、次の次の世代に当たる方々。
代々、こういう考え方が続いている証拠だと思います。まずは、そういう場所だと考えています。

村の人の存在には、やはり勇気づけられていると感じます。

みんなで支えてもらわないと、お寺だけで躍起になっても続かない。文化財の保存や、お寺の運営にはどうしてもお金がかかります。お寺のイベントを村の人が盛り上げてくれたりと、さまざまな形で協力してくれるから、存在し続けているのです。

例えば、参道を参道として保つためには、定期的に育った樹木を間引かないといけない。そういうときに、お寺だけでは対応できません。モミジを育てているが日陰になってこまっている、と相談すると、「ほな、村から人だしましょか」ということになって、先日もごそっと間引いでもらいました。

境内だけど村が管理している土地もあるので、そういうところは、もちろん村が協力してくれますし、ついでに隣のお寺が持っている木も切ってくれたりする。
ただ、お寺の木だけ切ってというと、それはこちらとしてもちょっと領域オーバーというか、村に負担だけさせてしまっていることになるので、言いませんね。

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村とお寺は、具体的に日々どのようにコミュニケーションをとっているのですか?

年4回、定期的に村との会議はしています。
お互いに誤解を生まないように。その時に自然と「困っていることはありませんか?」というコミュニケーションが生まれる。先方も聞いてくれますし、自分からも聞くように心がけています。

秋の紅葉祭りという大きな観光イベントを、毎年お寺とその周辺で行うのですが、村が出店をしてくれて、盛り上げてくれます。こういうことはやっていくと権利の関係などでもめてしまい、いつの間にかなくなってしまうこともあるかと思うのですが、うちの場合は、あくまでもお寺を盛り上げるというスタンスでやっていただいていて、良い関係でここ10年ぐらい続けられています。

うちの寺のように、駅やバス停から遠い施設が観光に門戸をひらいていくと、どうしても駐車場の問題がでてくるのですが、そこでも「ほな、村の土地かしましょか」ということで助けてくれます。

村とお寺がお互いに、とても意識的に関係を築いているのですね。

そうですね。
実はお寺とその地域の関係性は、バランスを保つことが簡単ではありません。

「このお寺は村のものだから、住職がいばるな」となってしまう場合ももしかしたら、どこかではあるかもしれません。
そんななかで、今の長壽寺は、住職を中心に村で手伝えることを手伝う、というスタンスがお互いに了解しあえている良い関係です。それこそ現役の50代、60代の村の方々が中心になって、そういう関係をつくっていってくださるので、とても有難いことだと感じています。

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何がそうさせているのでしょうか。

そうですねー。自分がそうなるように仕組んだわけでもないですし。
自分は長壽寺で生まれ育ってはいますが、住職としての年数は4年程度で、まだ浅いのです。それを考えると、歴代の住職や村の方々お互いに受け入れあってやってきた積み重ねだと思います。

いろいろな関係性の積み重ねがありますが、村がお寺を支えている限り、やっぱりお寺は村のシンボルなんだと思います。

ですからお寺の役目が終わるときとは、きっと「この仕事はお寺のためにしたってんねん」とみんなが言い出す時だろうと思います。

例えば、冬に行う大きな行事の「鬼走り」にしても、村の人がしたいからお寺が協力しているというスタンスです。村が無理してする必要はないし、村に動機がなければなくなるものだと思っています。そういう話も、お互いにこのまま忌憚なくしています。
それで「しますか?」ときくと「します」となるので、「ほな、しましょか」となってます。

ストレスなく、お互いに線引きを了解しあっていけているのは、ようしゃべるからでしょうね。

歴代のご住職の「教え」のようなものはありますか?

はっきり言葉として伝わったものはないのですが、でも、村、つまり長壽寺を信仰の場としている信徒さんあってのお寺という認識が伝わってきたとは感じます。

また、その信徒さんも、私たち寺の人間も、すぐ近くに住んでいて、生活の場を共にしています。そんな要素が築いてきた関係だと思っています。

村とお寺の関係に、わかりやすい線引きをしたのが先代、私の父でもあります。また、そのころから村の中心的な50代、60代が、いわゆるビジネスライクなやりとりを受け入れて新しくなることに肯定的な雰囲気を作ってくれたということもあります。
新しいスタイルではありますね。

自分も働いていたので、お寺のために休みの日に出てきてくれはる人は、ほんまにすごいな、と思いますし。
昔のように、お寺のために村が動くのはあたりまえという感覚はないですね。

そういう環境で育っていない人にとっては、とても新鮮な世界に見えます。

昔はどこもそうだったのでしょう。
それが、簡単にいうとここにはガラパゴスみたいに残ってきたのでしょう。村も十人衆(じゅうにんしゅう)が仕切るというシステムが残っていますし。

十人衆!?10人が集まるということですか?

ええ。村の長老が10人いるんです。
この10人がもともと村の決裁権をもっていました。今は行政の機構や制度ができていますが、それでも村のしきたりごと、例えばお参り事についての取り決めは、やはりこの十人衆が行います。

例えばCOVID-19感染拡大に配慮して「今度の10月のお参りを簡略にしようか」となったときに、まず村の人は「十人衆のおうかがいをたてよう。そこでうんといわらんとでけへんな」といいます。

新しく他の土地から移住してくる若いご夫婦などもあるかと思いますが、そういう方々はどのように村やお寺に関与しはじめるのでしょうか?

まるきり新しい人が移住してくることはほとんどないのですが、お婿さんやお嫁さんで来る方はもちろんありますね。

ついこのあいだもお婿さんが外から来られて、お参りのときに村の方とその方について話していたら、「若い人が来てくれて、とてもうれしいから、自分が村の行事にひとつひとつついて、慣れてもうて、知っていってもらおうと思てます」とのことでした。

それでそのお婿さんに後で会ったときには「自分もそうしてもらおうと思ってます」ということでした。
こんなサポートが自然と成り立っているようです。

もちろん、古いしきたりが現代社会で仕事や生活をする若い人には負担になる面もあるので、それはやはり50代、60代の人たちが十人衆に「これはこう簡略化しませんか」とお伺いをたててくださる。

働きながらでも村の行事ができるように、工夫をしているようです。

基本的にはすべて村の行事は口伝なので、そうやって工夫して伝えるしかないという理由もあるかと思います。縄の編み方ひとつから、やってはります。

また、不思議なのが、それをあまり疑問に思わずみんなしてはることです。
なんでこんなことせなあかんねん、とはならない。

冬に行う「鬼走り」は、20代の子らが中心になってやります。
その子らも自分らがしてもうた、というのもあるかもしれませんが、自然に役割を分担してやっています。

いままでお話に上がってきた「村」の広さはどのあたりなのでしょうか。

長壽寺の周りから近江学園の入口ぐらいまでです。これでもちょっと広すぎるかもしれないぐらいです。(参照地図
真ん中にメインストリートがあって、その両脇に家々が並ぶようになっているのですが、信徒さんの家の数で言うと46軒です。もちろんこの地域で信徒に入っていないお家ももちろんありますが、この区域の半分以上が入っている状態です。

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この区域を村の方々は何と呼んでいるのですか?

そうですなー。在所(ざいしょ)とか、いわはりますね。在所の近隣の、新しい方々も、このあたりに在所があることはわかっています。

農産品のゴボウを長寿ゴボウと名付けて、地域の特産物としてブランド化しようというお話を最近いただいたのですが、その話は実は在所の外の新しい人がもってきてくれました。

行政区としてはもちろん在所よりずっと広いです。
地域のアイデンティティとしては、この行政区と村もしくは在所が混然一体になっている側面が興味深いですね。
新しく入ってきた人だけど、行政区のことをやっていると、やはり在所のことには関わってくることがある。そういう現代的な混じり合いがあります。

だから、新しい人がいきなり村のお参り事に主体的にかかわるということはないけども、お参りに来てみようかとか、お寺にイベントの相談に来てくれたりという交流は生まれていますね。

お寺の年中行事は、どんなペースで行っていますか?

実際は長寿寺と、同じ敷地内にある白山神社との年中行事が渾然一体となっていますが、おおまかにお伝えしますと以下のような感じです。

7月の終わりに、護摩をたいて十人衆が仕切って行う家内安全などの祈願をする行事があります。これは滝不動というお寺の奥の院に当たる場所、車でないといけない山奥で行います。

8月入ってすぐに、龍王講(りゅうおうこう)という雨乞いの行事があります。お寺の裏の阿星山の頂上のすぐ下に、雨乞いするための大きな岩と祠があるのですが、冬の鬼走りで鬼子をする予定の子供がその祠の中の御神体の石を麓の石を年に一回ずつ入れ替えます。
朝の5時ぐらいから山に登って石を入れ替えて、古い石を持っておりてきます。その石を白山神社の拝殿に置いて、そこで私がお経をあげて雨乞いをします。そして、その石を蔵にしまいます。
つまり2つの石が年によって、山の上と下を行ったり来たりしているわけです。おそらくかつては住職も鬼子と一緒に山を登って、お経をあげていたのだと思います。

10月には、仁王会(にんのうえ)があります。国家の安泰を願う行事です。昔は隣村のお寺と持ち回りでやっていました。村同士の交流の意味もあったようです。行事の時には、山ほどお菓子やご馳走を持ち寄って本堂に積み上げます。それをお供養として持ち帰っていただいていました。食べ物を分け合うことが、交流になっていたのですね。
20年ぐらい前まではやっていました。しかし、近隣の村では、残念ながらその行事を継続できなくなり、おやめになりました。ですので、うちの村だけでずっとやっていて、もう他の村からは人が来ないのですけど、たくさんの食べ物をお供えするという風習だけが残っている状態でした。パンやお菓子が山ほど積まれて、持ってきた人だけで品物を混ぜて、また分け合って持って帰る、ということをしていました。
ここ何年か「自分らで持っていったものを、もう一度持って帰って、意味があんねやろか、これは」となってきました。私はこうなるまでの経緯を見ていたので、心を込めたお供えをしっかりすれば、無理にお菓子をいっぱいにする必要はないと考えてます、と村にはお伝えしました。「ほんなら、十人衆に相談します」とやっぱりなりました。
それで今、相談されている最中です。

その時のお供えの中に面白いものがあります。おでん、と呼んでいるのですが、ニンジンや大根を輪切りにして串にさして立てます。一番下が大根で、その上がニンジンで、と大体の順番が決まっていて、それを立てた下にそれぞれの家の名前を書いた札をおきます。施主、ということになるのですが、ずらっと並べて飾ります。これは、やめへん、となります。なぜなら、野菜を切って、串を作る役目を十人衆が担っているからです。
おじいさんたちが朝から切っていますよ。他の人が切ることは許されませんね。厚さについても決まった了解があるようです。

9月と3月のお彼岸の日に、大般若経(だいはんにゃきょう)といって、お経の本をパラパラとめくる転読を行う行事があります。

そして、1月に鬼走りがあります。この法要は、無病息災・五穀豊穣・村内安全を願う「修正会(しゅしょうえ)」と、厄除息災を祈願する「追儺(ついな)」、そして村の成人式を兼ねた珍しい法要です。15歳の男の子が、国宝の本堂の中をかけまわり、鬼の役目を果たします。

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(転読の行事に、参道を向かうご住職)

文化財保存のために、どういう取り組みを計画していますか?

歴代の住職は皆そうだったのですが、それぞれの代で課せられた使命のようなものがあります。私の代では防火設備の設置と、屋根の修理の2つが大きな使命です。
自分の代でこの二つが片付いたら、保存についての体制は大きくは整うだろうと思っています。

実は、国宝伽藍の解体修理は、もう無理だと思っているんです。
本当は100年ごとにやる方がいいのですが、国の許可や助成金が必要なため、財政面を考えると難しいのが現状です。

とはいえ、屋根だけは歴代住職のそれぞれの代のうち、一回はみんな直してきているので、自分の代でも一回はしとかなあかんなと思っています。

防火は、目下放水銃と貯水タンクの大きな工事が進行している最中ですが、実は先代が設置を検討し始めていました。おそらくいろいろな経緯があって、途中で計画が止まっていました。二代に渡っての念願の設備なので、自分の代でできてありがたいな、と感じます。
これで果たさなあかん仕事の半分は済んだ、と思っています。

屋根の修理は何年後に行う、などの計画はありますか?

実は、国に申請は出し続けています。
村の人も修理の必要性は実感してくれて、基金を作ったりなど動いてくれています。ただ、滋賀県の事情ですが、目下、比叡山延暦寺の根本中堂の修理が行われていますし、そのほかでも傷みの激しいところからやっていかないといけない。
うちが一生懸命お金をためて準備しても10年は順番は回ってこない、と言われています。

もし息子がお寺をついでくれたら、やっぱり屋根修理の使命は自動的に付いて回るでしょうね。

文化財の中で生活をしていらっしゃるわけですが、どういう大変さがありますか?

日常的には、敷地内の整備状態が常に意識の中にあります。

観光の方が「大きくて立派な木ですね」といってくれますが、自分としては「台風で本堂に倒れたらかなわんな」と思っています。そういうソワソワ感はいつもあります。雷が鳴った時なんかも気が気でないですね。夜中でも参道を見にいったり、どうしてもしてしまいます。

そういう保存の責任がある中で、村の人が協力的だということが一番ありがたいです。大変に助かる。

新型コロナウイルス感染拡大の影響はありましたか?

2020年4,5月はお参りの方がゼロの日もたくさんありました。
団体さんもなくなりました。

9月に入って少し戻ってきましたが、こんな中でも信心をもとにお参りにきてくださる方があります。そういう意味では、本来の信仰の場所に戻ったといっても良いのかもしれません。

歴史のあるお寺のご住職として、こののちの世界に何を期待しますか。

毎年お盆には、村の家を一軒一軒、私が棚経をして回るのですが、もし私がコロナウィルスに感染していたら村ごとダメになってしまうので、今年はご断っていただいても良いです、とお伝えしました。全部で80軒ほどありますが、断ったところはありませんでした。
きっと、この村にとって、お参りごとは「ないと気持ち悪い」のだと思います。

人が顔合わせることが難しい中で、新しい集まり方が工夫されていますが、お寺を中心に人が集まることは、今までの時代の中では根源的なことだったので、新しい方法は想像が難しいですね。

生活の中で仏様を介して、集まることがまだ残っている場所では、感染拡大などの状況があっても根源的なところに触れるだけに難しいです。早く安心して集まれるように、ということを望んでいます。
この村の人が、集まることやお参りごとをなくすことは、よしとはしないでしょうね。

1月の鬼走りも、外部の人がきてもらうのは避けながら、実施することになりそうです。やることはやり続ける、というスタンスですね。
他方で、観光向けの出店はやめました。

お盆のお参りの最後に、村中が狭い本堂にぎゅうぎゅうに集まってみんなで行う総施餓鬼(そうせがき)があります。今年は危ないので、村の役員だけでやりましょうと、当然みなさん賛同してくださると思って提案しましたが「そんな殺生な」という方もありました。その辺が、やっぱり根源的、ということなんでしょうね。

収録 2020.8.27  

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続けていくことの困難さと、それゆえに育まれた場の得がたさを実感できるご住職のインタビューでした。
長壽寺を訪れると、いつも境内に「静かなにぎわい」という言葉がふさわしい、不思議な時間が流れていると感じます。
木々に囲まれた参道にはだれの姿も見えないのだけど、包み込むように見守ってくれている存在が、確かにあるのです。

ぜひ、この秋に、周りの地域の様子を味わいながら、湖南市の長壽寺を訪れてみてください。

文責:ヘリテージデザイン 山田咲
写真:相模友士郎

写真展「所有者の視点から見た文化財 vol.2 -滋賀県湖南市 国宝 長壽寺-」
写真・空間デザイン:相模友士郎 
日程:2020年10月24日(土)-11月30日(月)
場所:無鄰菴 洋館1階 (京都市左京区南禅寺草川町31)
料金:無鄰菴入場料のみ
入場方法:無鄰菴ではCOVID-19感染拡大防止対策として、2020年8月現在、9時~17時の間の一時間ごとに20名様を上限とした予約入場制となっております。詳しくは下記の予約ページよりご確認ください。
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