2023年10月4週目 43/52週目

月曜日
・本キャスをした。この会は他の人が喋っていたので自分は喋らなかったのだが、最近本屋でパラパラと興味がありそうな本をめくることはできるのだが、そこから文章が頭に入ってこないことが多い。積読も増える一方で、いざ開いてみても買った時と気持ちが移ろってしまっていて、否、そんなカッコいい話じゃなく単にモチベが下がって、あるいは読める算段もないのにストレス解消半分、こんな本読めたらカッコいいなという憧れ半分で買ったので、全然読み進められない。本を食べ物に置き換えると、本屋で匂いは嗅いで「美味しそうだな」と思ったものの、実際全然食べれない、咀嚼できない、飲み込めないものが沢山ある。やっぱり買った勢いって大事だよな。夜、仕事に疲れて代償行為的に買うくらいなら、一日おいて朝買って時間とってその日の内に読めるだけ読んだ方が健全かもしれない。(そんなスケジュール組める平日は無いという問題からは目を背けつつ)

火曜日
・仕事に一人底意地の悪いやつがいると、その人から端を発した悪意が連鎖して、関わる人に同じ様な心無い行動を取らせる事となり、その結果として関係者に要らない心労がかかる。悪意は組織の壁を超えて相手に伝わる際に、相手の人格の捨象を進める。仕事なんて大なり小なり相手を役割で仮定して業務の能力で推しはかりそれ以外の要素を排斥する(それは優しさである時もある)が、それが悪意が伝播する人同士の間でより加速する。まぁその底意地が悪い人も自分なりの立場があってそうしているし、会社は立場で動く場なのでそれでいいのだが、倫理を仕事に当てはめるのではなく、仕事に倫理を合わせると、知らず知らずの内に歯止めが効かなくなる。「親切さ」を失わないようにしたい。

水曜日
・フルライフ 今日の仕事と10年先の目標と100年の人生をつなぐ時間戦略を読んだ。これくらい読みやすい本であれば食べられた。(知的体力が弱っているからあんまり咀嚼できていなけど)

人が活動する場には「ひとり」「みんな」のメンバー軸と、「いる」「する」の行動軸があり、四象限を取る。

「ひとりでいる」→お風呂・睡眠・散歩など
「ひとりでする」→企画・読書・資料作成など
「みんなでいる」→旅行・飲み会・雑談など
「みんなでする」→商談・進捗管理・プレゼンなど

これらの行動はそれぞれ「直観」「大局観」「論理」に紐づく。例えば散歩なんかは発想が生まれやすい「直観」の営みだし、読書は現実と本の中の理論、つまり具体と抽象を行き来する「大局観」の営み、進捗管理はみんなで「論理」で行動をまとめていく営みである。

(分かりやすい図は下記リンクより)

興味深かったのは「ブレスト」は「みんなでする」営みで、論理に属し、アイデアを出す直観の営みではないというところだ。確かにアイデア出しというより実際はみんなの意見をまとめていく営みであろう。

これを読んで思ったのは四象限各行動によって「場所」を分けた方が良いという事だ。

「ひとりでいる」→家のソファ
「ひとりでする」→カフェ/会社の一人用会議室
「みんなでいる」→会社の執務室
「みんなでする」→会社の会議室

単調なタスクは一人で籠ってやるのもいいが、執務室で時に雑談しながらやるのも良いらしい。逆に企画やプレゼン準備であれば一人用会議室を取って集中してやった方が良い。ダラダラスマホは極論会社の一人用会議室でもできてしまうので、会議室にはスマホを持ち込まない。その代わり家のソファでちょっと長くやってしまうのは許容する、など場所と紐づけてモードを切り変えるのが、永遠とやる気待ちしてダラダラダラダラしてしまう自分には合っているように思う。そう考えるとテレワークだと仮に自分の部屋があったとて、そこがリラックスするための空間としての役割も持ってしまっているので、モードを切り替えるのは難しい側面もありそうだ。まぁこと、天才肌ならぬ「肌だけ天才」(天才的な人間のような気まぐれさ気難しさを持つが能力はない。つまりカス)の自分の問題であって、仕事できる人は気にしないのかもしれないけど。

木曜日
・月曜日に書いた悪意に対し、社内の人が気にかけてくれて、フォローを体制を取る為の社内の頭出しをしてくれた。「とだっちさんの仕事は十分なのですが、案件特性として警戒すべきなので」と枕詞を付けてくれていたらしい。気にかけてくれてくれる人がいる、「ひとりじゃない」と思える事が有難かった。

・社会人生活も長くなり、「わざわざやらなきゃいけないと俺は思わないけど、反論して説得する時間と後に遺恨を残すリスクを考えるとやったほうが早いからやっちゃいます」を「おっしゃる通りです。ご指摘ありがとうございます。対応いたします」と言えるようになった。悩むのもリソース食うし、指摘の通りの対応で結果何もしないより上手くいくこともある(じゃあ良いじゃんか)し、どうせやるんだからグダグダしないで脳内の「激媚くん.exe」が勝手に文章置き換えて脊髄反射で答えてくれていいんだけど、それもまた会社の倫理に合わせすぎてしまう結果になるのかな。

金曜日
・日常のちょっとした面白さを写真に撮って送り、返事がもらえる相手、それを送りたいと思える相手がいる事の有難さを感じた。実はそういったふとした瞬間のちょっとした幸せは気づきさえすればもっと沢山あったのかもしれない。その瞬間が沢山あったのに当時の主観ではそれに気づけず、後から思い返すと「ああ、あの瞬間たちが大切だったんだな」と思える時期に「青春」とか「働き盛り」とか良さげな名前が付いているのかもしれない。

・パートナーが「推し」とか「尊敬できる」というときに抱いている感情はどうやら自分とは少し違うようだ。自分は「推し」を聞かれたら「角田夏美選手」や「ディヨラ・ケルディヨロワ選手」(ウズベキスタンの柔道選手)(敬称略)を挙げる。これにはいわゆる「推し」によくあるような(今、どんな文脈でもそれに言及するのあんまり良しとされないの分かっているけど)容姿の側面、「かわいらしいのに柔道強くてギャップがあって素敵だな」という要素がある。

けどメインは「単純な引き込みじゃなくて一本が狙える巴投げからの寝技の極めの力すごいな」とか「両袖の袖釣り込み腰で先手を取ってからの二の矢としての腕十字への派生が早くてかっこいいな」など「自分もその一部でも良いからマネしたい」「その人ぐらい強くありたい」という気持ちが大半を占める。

恐らくパートナーが「推し」とか「尊敬できる」と言った時には「ああなりたい!」はそんなに含まれていないように思う。ただただ見ているだけで、一緒の空間に居られるだけで嬉しい、といったような意味が含まれているようだ。逆に自分は同じ空間に居なくてもいい。技を極めている動画をダイジェストで見られるだけで満足だ。

「する」という事と「いる」という事。自分といることを受け入れてくれるパートナーに支えてもらいつつ、自分の主観はまだまだ「する」を重視している。これから晩年に向けてできることつまりは「する」ことが減ってくる中で、もっと人の在り方そのものを尊敬できる(「とうとい」?)ようになっていければいいな、と思う。

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