若者語を読む

 以下、書いてることに何の文献的検証もなく、おれが体験してきたことの記憶のみで書いているので、個人差、地域差、クラスタ差、時代差、さまざまな要因によって断言できなくなる内容を含む。

 というか、「そうじゃなくね?」って反証や違う角度からの実体験話などなどがあったらぜひ聞きたい。


「ハブられる」→「省かれる」

 集団からひとりをkickするような行為や現象、状態を「ハブにする」「ハブになる」と俗に言う。

 語源は「村八分にする」である。あるいはこれを解さずに、意味がまあまあ通る「省く」からの連想で広まった地域もあると思われる。①「村八分にする」→②「ハブにする」→③「ハブる」と短縮されてきた。

 ②も次第に言われなくなり、③が残る。そして①や②を知らずに③を聞くと、これはいよいよ「省く」との区別が付きづらい。また①〜③の全てを知らずに初見で③を聞いた時、「省く」と聞き違える可能性はとても高い。

 ゆえに、「ハブる・ハブられる・ハブって」が意味はそのままに、耳馴染みの良い「省く・省かれる・省いて」に化けて引き継がれるケースが広まった。

 ……未だに、kickされるという意味で「ハブかれる」と言っている人を見ると、「ハブられる、の間違いだろ!」と思ってしまう老害心があるんだが、これこそ正当な"ことばの移り変わり"かもと思う気持ちもあるな。


「延々と」→「永遠と」

 「延々と」は、ご存知「ずーっと」という意味。長々と。だらだらと。引き延ばして。

 「永遠に」も、ご存知「ずーっと」という意味。永久に。フォーエバー。延々よりはもっと強力な感じがある。

 意味が同系統で、しかも えんえん と えいえん はとても音が近い。永遠のほうが、親しまれやすい(幼い子供でも知っている)語である。

 「延々」は状態を形容する詞だが、「永遠」は概念の名詞である。ゆえに「延々」、「永遠」が適する。「永遠」はちょっと変だ。

 品詞と助詞の関係だけでなく、意味の面からも厳密には互換性がない。単に「長々と」なニュアンスで済むところに、フォーエバーな「永遠」を突っ込むと極端な場面も多い。

 ただ、些細なことにも極端な形容をしてふざける俗語はよくある。たとえば、「延々とやってる」と言うべきところで「一生やってる」なんて表現がされるし、「とても良い」と言えばいいところで「優勝」「最高」とか。「永遠」も同様に捉えられる。

 

→「最高」→「優勝」→「しか勝たん」(「対よろ」)

 何かを「良い」と表現する時に「最高〜!」と自然に言いたくなる。自分より上の世代はそうでもなかったりするのかな。とにかく自分は自然となる。「めっちゃいい!」で気が済むこともある。

 めっちゃいいはvery goodだが、最高はthe bestである。英語でラフなコメントする時に「原級形容詞の Great! だけだと気持ち乗せきれてないんじゃないか? 最高って言いたい! I had never seen 比較級……」ってコネたい欲望は、現代日本語がそもそも持ってる感覚なのかなーと思う。

 最上級とは、ある集合の中での比較を経て決定する結果だ。じゃあ何と比較してるの? かっこいい音楽を聴いて「これ最高!」って言う時に、「今まで聞いてきた音楽全てと比較した結果、最も良い!」とか考えてるわけじゃない。何とも比較しない最上級があると考えられる。

 ……さて、ここ数年で見るようになった「優勝した」。これも準優勝や3位以下と比べて優勝を定めているんではなく、単に「優勝する」ことに付随するプレミアーなイメージや快感のみを取り出した表現と考えられる。しかし"勝"という文字を含む言葉は、「最高」以上に比較のニュアンスを強く持っていることは指摘したい。

 「〜しか勝たん」はさらに最近の表現だ。もちろん流行り言葉なので、何か意味をこめてこの表現を選んでいるわけじゃないだろう。が、勝ち負けの価値観の延長線上にある表現が加速していると考えられる。このまま行くと2021年はどんな表現になるのだろうか。

 「対よろ」こと「対戦よろしくお願いいたします。」も、単にオンラインゲームで良く言われる言葉を楽しく使っているだけだろう。これを取り沙汰して「最近の若者が心配じゃ……」なんて言うほどマジではないんだけど、上記も合わせて、勝ち負けの価値観がすごく自然に、無意識に潜り込んできてる小さな傾向があると思う。


「固定観念」→「固定概念」

 「固定観念」は崩して言えば、凝り固まった思い込みのようなものだ。観念(=主観的な意識や考え)は、本来は自らの思索によって自由に変容できるはずなんだけど、先入観や偏見や無知ゆえに凝り固まってしまうこともある。「固定されてないはずの観念が、固定されているから、あえてわざわざ"固定"観念と形容する」のだ。

 では概念とは? 物事の性質なりルールなりについての共通認識、と言えるだろう。「共通」認識は自分ひとりの認識ではないので、誰から見ても客観的に一致している(べき)で、"自らの思索によって自由に変容でき"ない。すなわち最初から固定ぎみなのだ。そこにわざわざ"固定"とつけても、意味はあまり変わらない。

 比べてみるならば、観念は自由な主観だし、概念は定性的な客観だ。真逆と言ってもいいんじゃない? ゆえに「固定概念」は意味としては不通だ。いくら普通に使われるようになってもこのねじれは残り続ける。

 おそらくこれも、"概念"は子供でもわかる親しみある語なのに対して、"観念"は少し遠いせいだろう。また、音のリズムの近い「既成概念」との混同も考えられる。


「風景」→「情景」

 「情景」とは、単なる「風景」に"情"の意味が加わり、主観心情をセットで仄めかす時の単語だ。しかし最近の口語として、風景・景色と同じ意味の言い換え、バリエーションのひとつになりつつあると感じている(YouTubeでしゃべる人とかによく見る)。

 "情"のニュアンスを伴わない時にわざわざ「情景」を採用する理由はなんだろう? 音が「状況」と似ていて口にしやすい、すっと出てくるからだと推測している。また小説・漫画・歌詞などの詩的表現に影響されて口をついて出ることもありうる。

 これも特に目くじらを立てるよーなことではないがちょっとだけ雑分析すると……基本的に、風景・景色は写真で画像保存できるような客観的な光情報なのに対して、情景には主観的な心情が付随する。これらを混同することは、主観/客観の区別が溶けてきている、あまり意識しなくなっている傾向だと思う。さっきの観念/概念の話もまさにそうだ。


「エゴサ」「上位互換」「絶賛〇〇中」

 エゴサーチとは、Ego(自己)+ search(検索) = 自分の名前でインターネットやSNSを検索することだ(和製英語ではないが、英語だとEgosurfingのほうが一般的?)。しかし自己でない〇〇を検索する時、「〇〇でエゴサしたら〜」と言う人をたまに見る。わざわざつけた形容詞"エゴ"が無意味になっている。

 きっとこれも口馴染みの問題で、「エゴサって言いたい」が先行している。"サーチ"だけ言うのってなんか変な感じするし。ならば"検索"って言えばいいんだけど……"エゴサ"のほうがSNSのリアルタイム検索っぽいニュアンスを含んでて、"検索"よりも的が絞れる印象がある。

 ……また、とくに互換性がなくても"上位互換"と言うケースもたまに見る。「AはBの"上位"」で済むんだけど、"上位"だけ言うことには口馴染みが無い。ジョーイゴカン!って言いたくなる魅力があるのか。まあ"互換"がなくても"上位"が合ってれば正解率50%で、なんとなく許せてしまうのだろうか。(これについては、"完全"上位互換でなければセーフじゃね?っていうレンジの捉え方について議論の余地があるかも)

 最後に「絶賛〇〇中!」について。絶賛とは、他者にすごく褒められているってことだ。商品PRとかで、現に売上がよく(あるいは、よいふりをしたく)て「絶賛発売中!」など言うのはもちろんアリだし、全然数字伸びてなかったりまだ誰にも見せてないものを、ツッコミ待ちとして絶賛!と言ってしまうギャグもわかる。

 ただたとえば「絶賛昼飯中」とか、他人の賛同という俎上にそもそも載せないことについて絶賛!を使うケースがあるのだ。これもギャグといってしまえばギャグなのかもしれないが、その無意味加減とローテンションに不気味さすら覚える。

 エゴ、互換、絶賛。余計な言葉をつけることで意味が通らなくなるけど、耳馴染みが優先されるという3例でした。


まとめ

 さいきん日常的にインターネットで目に・耳にする語についてだけピックアップした。もっと古くからある俗語、今や一般化していっそ正しくなった誤記誤用などいくらでもあるだろうけど、現在まあまあホットと言える範囲で紹介した。

 こうした転換が起きている理由について、ほとんどまあ、ただの流行りっしょ、と思ってはいるけど、数%くらいは社会的価値観のじんわりとした変遷の影響があるんだろうな〜と考えていた。以下のように。

・勝ち負け、比較 の価値観の無意識の強化
・主観/客観 の違いを区別や意識しない傾向
・文字の意味と単語の意味の関係性を理解しない傾向
・単語の簡単さと音の快感が、実際の意味・ファクトに勝る傾向

 前者ふたつはさておき、後者ふたつはどの世代にもあることだろうね。「ことばの移り変わり」のすごく基本的な要件というか、ぜんぜん今に始まったことじゃない。

 前者ふたつもねえ〜、こんな雑な考えで「これだから最近の若者がゆとりのゲーム脳でモラル低下がどうだかこうだか!!」みたく非難しようとはこれっぽっちも思ってない。ていうかいいんすよ俗語ってそういうもんでしょ。てか、「勝ち負けを重視」して「主観/客観が溶け」たらダメって一意に言えないだろうし。

 ただし! 個々でどういう言葉を使うのもいいんだけど、社会にある言葉は知性的なほうがまあ良いかな。
 自分の中の気持ちはいくら野性的でも自由だけど、他人になにか投げかけたり強いたりする時には論理の成立が必須だと思うので、社会が反知性になるほど権力と暴力の比重が上がっていく。個人的にはそれはイヤだなあ。
 いま知性も論理も真実もめちゃめちゃ破壊されてる世の中だけど、世の中がそうだからといって自分もそこに乗っかるのか、抵抗するのか選ぶのは大事だね。
 一人ひとりがことばにゆっくり向き合うことで社会の知性もほんの少し強化される……ってのも、希望的な信仰と言われたら大して反論できないけどなあー

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