日記240508

 人間らしく生きる、苦しいときに苦しいと言う、死にたいときに死にたいと言う、殴りたいほど嫌な相手にせめて怒りの意をあらわにする。すべてを我慢してはいけない、社会の仮面をかぶってなりきりすぎず、自分の生を歩め、のようなテーゼを大事にしたい。言動そのものが幸福につながる。
 その一方で、それらをすべて隠し切り、外面をポジティブで柔和な言動のみに集中させて"すてきな・頼りがいのある・好かれる人間"を演じることで得られる評価は自己肯定感を高め、それ自体が幸福につながるし、ポジティブ・フィードバックが発生して演技と本音の境もあやふやになっていく、はずである。
 前者と後者のバランスにおいて、学童期〜青年期に社会性として後者を獲得し、揺り戻しのように前者をまた守ろうと考える。けっきょくバランスの話で、後者に傷がつかない範疇でいかに前者のための余裕を作るか、周りを見て空気を読み、あるいは権力を手にして、最終的な幸福が最大化するような損得勘定を行う。
 ずっとやってきていることだ。正直にありたいが、ありのままでは醜い。醜いことは自分にとっても損だが、ひとに嫌悪感を抱かせるなら迷惑行為でもある。正直なのに醜くない聖人でないのなら、他人のために耐えるという動機がある。いつも優しい言動、いつも前向きに余裕を携えて微笑んでいる。我慢の対価として得をして、地位を築く。社会善なのでマウントも取れる。
 レールから落ちることを恐れ、ハードコアな言動統制を敷くのは得策ではない。孤独を恐れるならば、優しく穏やかにいなければならない (裏を返せば、孤独に突き進めば良いだけだが)。"うまい人"は抜きがうまい。すべての言動を一色に徹底するのではなく、損得勘定のバランスのうえで、効果的な統制と角の立たない解放を組み合わせている。
 「たまたまそういう好みである」運の要素が強い。誰しも意図や戦略でやれるわけではなく、席がある人に許される努力の範疇だろう。フィットさえすれば、解放の面だって迷惑行為ではなく同情を買うことだってできる。"たまたま"一般性があれば、それとないプレゼンだってできる。
 たまたま心底好きなものがポピュラーである、というのは本当に強い。ポップスの星のもとに生まれて。もちろん好みは後天的に変容するが、努力して獲得するよりも、ナチュラルボーンにポップスが好きな感性が立っていることは社会に存在するうえで宝物になりうる。
 ナチュラルに生きて、ナチュラルに思ったことを言って、それが他人の慈しみを誘発する人がいる。それを我慢しない余力で、すてきな穏やかさを保つことができる。そうでないならば、そうでないならば……抑圧と迷惑行為にひきさかれてどちらにも行けない、存在が苦しみ、存在が罪。欲張る権利がないので、他人を羨まず、罰に浸って生きる。一切皆苦。

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