日記211202 (死の思索)

充実した夏休みの計画

 「夏休みはやっぱり短い やりたいことが目の前にありすぎて」と歌ったのは大江千里。

 夏休み明け、9月になって登校したら、同級生のレジャーの話を聞いてうらやましくなったりする。「ああ、もっと計画的に、楽しいことをたくさんやればよかった。与えられた40日をうまく過ごすことで、あんなこともこんなこともできたはずなのかー、ダラダラ寝転がってアイス食ってるばかりで、新しいチャレンジもせずに終わっちまったなー、旅行もできなかったわ。」とか思ったりする。

 人に与えられた寿命にも約80年の限りがある。ダラダラ過ごして時間を無駄にしていると、人生はあっという間に終わる。夏休みのように、もっと計画的に過ごしていればあんなこともこんなこともできたのに……


 果たしてそうだろうか?

 2学期が始まって、ああー夏休みに後悔が残る……と思ったり、来年の夏休みはもっと改善しようと思うことはある。けれど、死後に人生を悔いることはない。死んでいるためだ。
一旦、死後には来世や輪廻とか無くて自我は完全に喪われる前提で行きます)。

 人生をいかに充実させようが、無駄に過ごそうが、スカスカで気づいたら終わっていようが、楽しくて楽しくて一瞬で過ぎ去ろうが、ちびちび長々と楽しみながら過ごそうが、死した瞬間に同じ無になるのであれば、死後には同じことである。死の直前まででの価値は異なる。


 8月最終週になって「ああー夏休みが終わっちゃうなんてヤダ〜〜あれもこれもやりたかったのに〜〜」と思う人と、「う〜ん楽しみきった!後悔はない!」と思う人がいるだろう。
 シクシク泣いて終わるのか、笑顔で終わるのか……この比喩は人生にも適用可能かに思われる。

 しかし、夏休みを楽しみきって、気持ちもあらたに二学期に(次のステージに)向かう姿勢と、人生を楽しみきって死に向かう(次のステージなどない)ことの姿勢は多少異なる。”楽しみきった”という価値を持ち越す先はどこにもない。

 つまり、「未来において、反芻できる過去」としての価値は究極的には無であるため、いまこの瞬間の喜びや楽しさを追求すべきだと考えられる。
 「いい夏休みだったか否か」なんて総合的な評価を下すべきではなく、その日その時間が現在形で楽しいかどうかで判断していくべきである。


(「未来現在形で感じられる価値」のために事前準備することには意義がある。8月最終週にラクをするために7月には宿題を終わらせよう、というのはアリ。)

("「いま」なんて存在するのか?"というトピックもあるが一旦おく。)


終わりがあるから美しい

 というフレーズがある。(いくらかの連載漫画のように)ネバーエンディングなコンテンツは飽きやマンネリを指摘され、綺麗に畳むことのできた物語は高く評価される。

 原則的に終わりは1度しかない。だからこそ今までにない刺激的なアプローチがありえる。

 生もそうだろうか? 不死のフィクションキャラクターが厭世している描写はよくみる。有限を見据えて活動するからこそ生産性は輝く? 終わりがなければ美しくない?(命題の裏)


 まず、先に述べたように人生を全長スコープで総合的に評価することはナンセンスだ。
 「終わりがあるから美しい」の”美しい”が指すのはそのコンテンツ総体であり、いかに総合的に良い人生だったとして、人生が過去になった瞬間価値は消失する。己の人生を完結漫画として捉える瞬間はありえない。
(ちなみに他人の一生であればコンテンツとして鑑賞可能である。)

 終わり方、終わってどうだったかの評価に意味はない。残るは、「終わりがあることを意識するからこそ現在の姿勢が変わる」ことについてだ。この一点でもって「己が一生は、終わりがあるから美しい」と言いうる。ラスボスを倒すという目標がなければ道中の修行シーンがつまらなくなりうる(というか、修行すらしないかもね)。


睡眠は死の予行演習だ

 自分が自分であるという自我と記憶が連続しているので、私は連日生き続けていると自覚できる。

 しかし、睡眠の最中に意識は途切れている。
 たとえば「私は今朝突然この世に生成され、昨日までの記憶を外部から植え付けられたのだとしてもそれに気づきようはあるまい」的な思考実験はよく聞く。

 ゆえに、入眠することが怖くないように、永眠することも怖くはない。明日自分が自分として起きれる確信と、輪廻転生を信じることのレベルに変わりはない……という考え方によって、「睡眠は死の予行練習だ」など言われる。

(ちなみに私はこれで逆に、「睡眠も死と同レベルで怖い」の発想をして不眠になったことがある。)


 この比喩において睡眠と死、果たして条件は揃っているだろうか?

 他人の睡眠を観察する限りでは、意識が途切れても脳波は途切れてないよね、などによって永眠と睡眠は明確に区別可能である。
 意識の不連続によってこの比喩が立ち上がったのだとしたら、脳波の連続によってこれを否定できる。(ただし、己の睡眠前後で意識が不連続なことによって、己の睡眠前後で脳波が連続していることを実証できない。)

 また、起床はあくまで就寝時の状態のコンティニューである。日時は変化するが、それまで積み上げた己の状態、環境、地球上の座標は原則引き継がれることがわかっている。
 一方たとえば生まれ変わりはそれまでの環境の完全なリセットであるし、畜生へ生まれ変わればもっと前提が変わる。地獄や極楽があるとしてもステージが全く異なる。

 コンティニュー、自我、人生の積み重ねに執着し、それを価値と見なす以上、死は様々な信教のいずれでもまあまあ全てを失うことになる。不死や起床に比べると不安は大きい。

 「完全に新たな環境に放り込まれても、その瞬間瞬間を楽しもうとする」訓練が必要で、これは鍛えることができる。転校先で友達できるかな、転職先でうまくいくかな、を不安に感じないよう意識改革していった先に、「アイデンティティの全てを失い死後の世界に行っても平気かな」の低減がありうる。

 睡眠は死を部分的にしか比喩できないが、それは”予行演習”という表現にかなうものである。


夜は無駄なことを考える

 こういったことに思いを馳せるのは思春期や、夜中と相場が決まっている。おれは思春期が終わってからそうとう経っているがこういったことをよく考える。じつは思春期が終わっていないのか?

 何故大人になると考えなくなると言われるのか。
 それは、たとえばそんなこと考えているヒマもないくらい仕事が忙しくなったり、エンタメを楽しんだり、創作に集中したり、家族と喋ったり、忘我してYouTubeやTVを目と耳に流し込んだりして、それらよりもこんな思索が優先されることは無くなってくるからだろう。

 朝昼にこういったことを考えないがちなのも理由はある。朝は眠く頭が鈍い。昼は日中のアクティビティに頭を使う。夜の「もう今日は眠るばかり、何もしないと決めた」ベッドの中でほど、優先度の低い思索が立ち上がってくるのだろう。

 こういった思索の価値評価、優先度検討(実際しょうもないのか?)は、まあ物差しが色々あるだろうからさておき、とはいえ「考えていないのが正常」だと決めつけるには早い。
 つまり、考えていない状態とは「直視を避けている・麻痺している、異常な状態」と捉えることも一応可能だという話。寝起きでそういう事考えらんない〜なんてまさに麻痺だろう。


真実(陰謀)に目覚める

 よくツイッターレスバで、幽遊白書の下記のコマが引用されているのを見る。

幽☆遊☆白書 第14巻 P192

 右上の人が主人公で、左上の人=下のコマの人が悪役。

 ざっくり読めば、暴走した非常識な「トチ狂った」ような思想を、本人は「真実」に「目覚めた」と捉えるもんだ、という揶揄である。陰謀論まわりの雑多な記事・感想にからめて、「真実」「目覚める」「気づく」などの言葉そのものは若干汚染されている。
 もう少し原作に寄り添って読めば、両者はそれぞれの信じる正しさに立脚して口ゲンカしている。
 そのどちらがより正しいとされるべきか(作品内で。および読者にとって。)は、この口ゲンカ自体からは評価できない。

 この構図だけ拝借して、主人公を昼・大人、悪役を夜・思春期に置き換えてみてみる。
 やはり死について考えている状態は、真実、というか何か原理的なものに向き合おうとしている状態であり、それに蓋をする者からすれば異常でトチ狂った状態である。

 結局作品内で二人のどちらがどの程度正しいと決着したのかは、幽白を読んでもらうとして、「私」が「私」の状態のどちらがどう正しいと捉えるかはどちらにも転びうるってことだ。何度転び直してもいいし、転ばずにフラついていてもいいのだが、思春期-大人 的な構図だけをもって正誤を決定する必要はないし根拠にもならない(決定したければしてもよいが)。


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