日記210829 (善性不信の話)

 いつもf/f 0のサブアカに書いてるようなことのnote出張版です。推敲よりスピード重視。


 PDCAってバズワードがある。あれは「そのサイクルをいかに効率的に・正しく回しまくれるか」的な積極性の文脈の上にあるが、より広義に"計画実行評価改善"と考えるとなんら特別じゃない、何をするにしても基本だろう。

 「ほんとに一回性の課題だし、次に活かすべきことはなにもない」とか「突然実行せざるをえなかったので、計画していない」のようなイレギュラでなければ、考えて行動し・省みて修正する、の繰り返しだ、生きているかぎりは……

 それはそうなんですよ、そのとおりで、なにか実らせたいもの・維持したいものがあるならplanしてdoして、叶わなければ次のdoをどうするか考えては漸近していく、ゴールを明確にしてcheckをちゃんと量れるようにする、なんでもそうじゃないですか、理性の上では。

 同時に、そんなこと意識しなくても生きてはいけた。今も生きてはいける。運良くおれはね。積極的な向上心に身を削らなくても生活水準をキープして、ただ向こうからあらわれた課題と誠実に向き合い言動を決定する。doの後の行程が次のplanを自分の内側から生み出さなくても、「死んでるの同然の空虚な日々」とは感じなかった。ただその場の誠実な思索を積み重ねていくことで、ポジティブな彼岸へ歩を進められているような、まあ甘っちょろい確信というか……信心があった。

 それが今はないね。すべてがまるごとどんどん沈んでいるように見える。「時が癒やしてくれる。癒えるまで不品行を絶ち誠実に生きようではないか」というような無根拠な未来への展望は皆無。目の前の人にやさしくしようとか、今できる仕事をやるばかりだとか、そういうことからフィードバックの手触りが無くなって、むしろなぜ今までそれらがよい未来に通じていると信じていられたのか?が思い出せなくなってきている。

 今は、傷の治癒に具体的な対処・知識・技能と運が要求されている。自然治癒だけで快方に向かえる分岐点をすでに超えているんだと思う。そのために自発的なplanと、傷とは実際何なのか?を明確にする必要がある。「うつ病患者にせまってはいけない問いかけ」のオンパレードを自分にぶつけている感じだ。

 「もともとバチバチの個人主義、資本主義最適応で、他者との相対的な高みに上ることを是として"やってきて"いた人」からしたら何を今更って感じだろうな。「こうして自己判断にすべてが回収されるのが真の社会、真の生なんすわ」って言われたら悔しがりつつも7割くらい頷くばかりだ。まあそれはそうとして……


 なので、「ゴールを目指した具体的な対処を積極的にplanしていく」「"その時その時を善く生きようとすること"と"ポジティブな感触を自らのなかで勝手に得ること"の間で切れてしまったpathをつなぎ直す」のどちらかをやる必要がある。

 前者には大きな行動制限がある。厳しい制限の中やりくりするのがうまい人や、制限の捉え方がよりゆるい人がいて、おれのように"厳しい-苦手"タイプの人はかなり苦戦を強いられていると思う。その足を引っ張ってるものはいったい何なんだろうか?

 制限の捉え方はどこまでいっても主観だ。自分の行動がうむ損害が定量的に測定できたとしても、また行動によって得られるものも定量的に量れたとしても、異なる単位系を天秤にかけて行動決定することに絶対的な裏付けはない。

 そんな答えのない問題に身を投じる上で、なにか自分なりの基準を作ってそこに縋るというスタンスがある。おれはこれをして、これをしない。なぜなら……と言える理由と基準を持つことで、自分自身の納得を作り出し、自分を信じることができる。

 基準を考えること自体難しく、そんな基準に客観的正しさの保証なんて無いだろ、でも何か柱を打ち立てておかねば、何も判断できなくなってしまう。流される判断、自分の責任だと信じることのできない判断をしてしまう。だから苦慮してでも自分なりの柱をなんとかして立てるのだ。それは日々情報を得ることで変化してもかまわないから……


 こう考えてきていた。このぐらいしかロクな出口が無かったので、逃げなのかもしれない。そしてやはり、「自分の基準なんて、そんな大切にするものか?」という地点に戻ってきてしまった。ロクでもないと自覚しているのに信心のために拘泥して、その時その時の最適解の存在をもっと追求すべきではないのかと。

 そのまえに、「"その時その時を善く生きようとすること"と"ポジティブな感触を自らのなかで勝手に得ること"の間で切れてしまったpath」について先に考える。今これは主に、単純に現在と未来が真っ暗に見えているせいと言えるし、じゃあかつてなぜフィードバックの手触りがあったのかというと、なんとなくだけど「個々による個々のための行いが、間接的にまわりと共鳴している」感覚が双方向にあると感じられていたからだ。

 作品発表なんてのはかなり直接的にまわりをアゲる行いだが、もっとべつに、友達がなんかうまい食いもんの感想を言っててシンプルに「いいね」をつける気持ちの連鎖とか、「さっき起きた」とかですら良くて、そこにある無意識のポジティブが自分がただ生活するだけのことを肯定する足掛かりになっていた感触がある。

 いまもそういう日常的なことばがSNSには飛び交っていて、だが日常はすでに大きく侵食された上での苦しさをまとっている。友達の、普段どおりのゆるいつぶやきがかくも遠い箱の中の話に映る。重たい空気をものともしない剛速球のオモシロもあれば、飛距離が減じてくすぶる日常もあり、「こんなときこそ明るく」と豪腕を演じるときの無理してる感は裏目に出ることもある。

 飛距離が縮んでも距離が近ければ届く。物理的距離は制限されている。遠隔でもコミュニケーションがとれるはずのインターネットが君と友達の距離を今まで通りつないでくれていたらいいんだけど。おれはそうではなかったというのは7/24の日記に書いたとおりだ。


 この重たさがスタンダードになっている、悲惨なことが現実にたくさん起きているのだからしかたない。逆に言えばその前提をひっくりかえして、「悲惨なことから目をそらす」ことでpathはつなぎ直せる。これをまったくばかにできないところまできている。目をそらさないべきだというのは、おれの基準設定の一部にすぎない。

 基準をもうけたのは「メリット・デメリットの比較検討を正確にやるため」ではない。どうあがいてもそんなことできないからだ。おれの悩みと納得と信心を着地させることがどうにかできるのであれば何でもよかったのだ。徹底的に無責任になるのでもよい。後悔に向き合う態度すらコントロールの余地がある。基準を捨てることで得られるのは自由だ。

 それを続けていけば「おれとは一体何なんだ?」とわからなくなるだろう。でももういいじゃないっすか…… どう転んでも苦しさを抱えることには変わりなく、その比較には結局基準か主観かが要る、その繰り返し。

 基準を捨てれば、自分の信じる正しさに顔向けできないなんて、ほんとにそうかわからないじゃないっすか。自分を裏切ってみたら意外や意外と通ずる結果は一緒かもしれないしさ。Evilだと思うものに自らなってみることで、自分の99%がNOと言っている判断をあえて取ることでしか突破口が拡張できない可能性のことを思うよ。それぐらい真っ暗なんだ。

 社会はおまえを糾弾するかもしれないし、おまえの大切な人はおまえを見損なうかもしれないけど…… もうよくないか? 良くはないのか。おれは……

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