日記230628 (呟きの集積の読み方)

短く終わらす と最初に念じてから書き始める

Twitter議論は拡散する。遠くまでリーチが伸びるってだけではなくて、論点が拡散する。

きっかけとなる最初のツイートが持っている論点、条件、文脈。これらは得てして無視される。説明不足とか、わざと煽り要素を持たせた炎上商法など、発言の仕方のせいで文脈が欠落することはある。が、それらがなくとも話題は巧妙にすり替わる。自然にすり替わるものだし、その自然さを理解してわざとすり替える人もいる。

なぜすり替わるか。まず、元発言に触れる人の読解力の問題がある。あるいは、伝言ゲームの精度の問題がある。元発言へのリアクション、つまり二次発言以降だけを読んでも、条件を十全に理解できないことがある。それは読解力や説明力不足によるものや、単に元発言とは違う話題が展開されていることもある。

話が拡散するにつれ、内容の誤差も様々な方向へたまっていく。途中で人の心を強く煽る形に化けたりすると急に伸び、論点が霧散していく。なんか燃えてんの?と遠巻きに読むだけの人が増える。その頃には、元発言の趣旨を意識できる人は非常に少ない割合にとどまるだろう。

このところ見ていた話(深入りしていないので、私こそが大いに誤読している可能性も高い。あえて抽象化することで、ブーメランにならないよう努める)。

最初は「製品Aを用途P向けにオススメするのはよくない。Aは用途Qのためにつくられているものだから。値段の近い製品Bならば用途P向けの製品なので、比較的スペックも良いのにね」。これは公益的で誠実な態度だろう。

少したつと、「Aも使い方に気を払えば、Pにも使える」が出てくる。これはこれで間違っていないが、Bのような対抗馬があるのになぜAを薦める?という話とは論点が異なる。

更にたつと、「Aを否定する人は技術や知識がないのだ。Aは悪い物ではない」が出てくる。これはあまり妥当性がない。条件を恣意的に無視しているか、伝言ゲームの過程でこぼれてしまっている。

条件が無視されると、肯定派 VS 否定派 というざっくりした二項対立の構図になる。最初は、「私はとにかく肯定派」「私はとにかく否定派」の両者がいるのではなく、どちらかが条件を無視することでこの構図は作れてしまう。(たとえば、「とにかく肯定派」が先に現れれば、それらが気に入らない相手をまとめて否定派と指差すことができる。)

二項対立がひとたび出来上がると、あとから参入するのは簡単だ。私は紅組、おいらは白組、ボクは新たな角度の第三陣営で目立とう、おれは議論全体を冷笑してダサいと煽るのが気持ちいいぜ、……スタンスの取り方も様々だ。

冷笑の自覚がなくても、「AとかBとかでカリカリ喧嘩すんの良くないよ」という気持ちがツイートに漏れるとき、元発言のあの公益性をポッキリと否定している。しかしあなたはそんなこと気づかない。いちいち道筋をたどるほど、さしたる興味はないからだ。

端的に言ってHELLだろうこれは。嫌な話ですね。

たとえば増田とかたまに読みに行くと、論点ずらしてキレたり煽ったりしてるコメントはまあめっちゃ多い。だけど、ズレてる奴にはそれなりに指摘も入ったりして、語調は荒いながら殴り合いが成立してることはある。元増田をすぐ参照できるツリー形式がそうさせてるんじゃないか?

一方でTwitter、誰もが元発言と同じ議論のテーブルにつけば、さっきみたいな形のHELLは起きにくくなる。しかし、そうでなくてはならないのか?というと……べつに、「誰かの発言を読んで、私は私なりに連想した別の話題をつぶやくでヤンス」という態度は否定されるものではない。

それは自由だ。まあまあ火種をばらまく行為として遠慮してみる価値はあるけど、周囲が禁止するのはやりすぎだ。ふつうに建設的なあらたな話題が独自の方向へ伸びていく例だってたくさんあるのだし。

では、このHELLはTwitterにつきものだとして、全般的に受け入れていくしかないのか?

半分はそうだろう、でもやれることもまだある。

ここでおれたちが自分の行いについて気をつけるべき点が2つあると思う。

これは自分の心掛けのメモでもありつつ、読んでるあんたらにもちょっと影響があるといいなと思っている。そんなに強くは望まないし、疑いながら読んでほしいが。

まずは自分が一番外周にいるとき。すなわち「なんか諍いが起きてるぞ」程度の状態のとき。もし野次馬心を抑えられるならそれでOK、おしまいなのだが、もうちょっとライトに、「全体を一つの現象だと見做さない姿勢」さえあればまずはイイと思う。

どういうことか。先の例だと、元論点と派生論点は異なる条件での価値の話をしていた。同じタイミングで製品Aの是非を話している人が2人いたとしても、同じ議論ではない可能性をつねに考慮すると良い。

「なんかみんな製品Aとか、カテゴリN (AやBの含まれるカテゴリ) の話してんな」と感じたときに、"みんな"が全員、肯定/否定の紅白大合戦をやってると思わないことだ。自分のチームに得点を入れるために発言しているのではないのだと想像すること。

"みんな"の話が一枚岩じゃないなら、どういうふうに分割されているのか?を考えるべきだ。現実はきっと複雑だ。少しずつ理解するもよし。べつにそんな熱意もないなら、思い切って完全に手を引いたり口をつぐんだほうがよい。全てに丁寧に接しているヒマは普通ないから。

そうすることで、"みんな"が殺気立ってて嫌だなあ、って気持ちが軽減できたり、自分も加勢しなきゃ、って焦りにも冷静になれる可能性がある。

まあ冷静になってみたら、ぜんぜんみんな本気で紅白大合戦で殴り合ってたなんてこともあるんですが……

あと激クールなスタンスとして、「二項対立が確立した以降にAについて話してるやつは、戦争への参加表明したも同然でしょう。さもなくば黙ってろ (少なくとも己の論点で別の話を始めるのは、波の荒れている今現在ではないだろう)」もありえる。それはそれでいいと思う。

もうひとつは、自分が割と内側にいるとき。元発言や、1 hopくらいのリアクションを読んで「言い返したく」なることについてだ。

なぜ論点のズレたリアクションが生まれるのか。おれは、「なんか見下された気がする」という被害意識の生まれやすさがメチャメチャ重要なのではないかと思っている。

実際に見下されたことに対してリアクションするのは正しいことだ。発言者にその気がある/ないを問わず、差別発言やハラスメントを指摘し訴えることは、発言者の本筋とは異なっていても妥当性を失わない。もちろんマイクロアグレッションについても。

しかし……先の例で言う「Aも使い方に気を払えば、Pにも使える」というリアクションをするのは誰だろう?と考える。
「過去、AをPのために薦めてた人」であれば、元発言者の対抗なので、真正面から議論すれば良い。邪推だが、「Aをすでに持っていて、気に入っている人」が多いんじゃないかと思っている。

そもそも「AもBも持ってない人に向けてAを薦めるのは間違ってる。Bのほうがいいよ」という話では、「実際にいまAを使っている人」は対象ではない。のだが、Aを使っている自分に泥を塗られたと感じてしまうのではないか? 過去に遡って「お前の購入判断は誤りだった」と詰られてる気になり、それを受け入れられないのかもしれない。

そういう反発心が、元発言の条件を無視した別側面からのAの擁護 として立ち上がるのではないか。なにか少しでも口をはさんで気持ちを落ち着かせたり、対外的なプライドを保ちたくなる。(ここまで邪推だが、「おれならきっとそう思うだろう」ベースで妄想している。)

だがそれは、紅白大合戦への第一歩だ。理屈や論理よりも、どっちサイドに立つかを重視してしまっている。

戦争への道だってわかっていても、でもAも良くてさ……と漏らしちゃうかもしれない。できるだけ「全然関係ない話ですけど!」という体でボソッと言えばうまく吐き出せるんじゃないか? しかし外周からはチームに得点を入れてるように見えうる。細やかな配慮は汲み取られない。

だからおれが、おまえが、正気なうちは(自覚のあるうちは)、がんばって口をつぐむのだ。見下された、けなされた、プライドに傷がついた、そこが踏ん張りどころで、冷静に考える。(冷静に条件を踏まえても、確実に侮られてたとわかったら、ゴーだ。)

勝手に条件をねじ曲げて、一部の言葉から自分が侮られたと感じる要素を見つけてしまうこと。これが多くの諸悪の根源だとおれはメチャ思っている。これを自覚的に回避する意識を個々人で持つのが重要なんじゃないか。

繰り返すが、とくに差別語なんかは発言者に"その気"がなかろうが、侮りとなりうる。私の心の暴走による意図のねじ曲げなのか、妥当性のある不義認定なのかの境目は、同等の行為が世に溢れることを許せるかの社会的判断に拠ると思う。うーん違うか? この話は重いので他に譲る。

3つめがあったので書いとく。

「元発言者がAのすべてを否定してるんじゃないってわかってる。Aを使ってるおれの心も落ち着いているよ。でも、元発言者に『ですよね〜! Aって全面的にカスですよね!』と話しかける"文脈の読めていない賛同者"が現れるかもと思うと……先手打っておれがAを擁護しておかないと!」

こういう理屈でやはり口を開いてしまう心理があると思う。

元発言者がそういう賛同者を毅然と否定してくれるかはわからない。反転アンチになるのを恐れてふわっと窘めるだけに落ち着くかもしれない。本意をやわらかく隠した窘めは結局伝わらないこともある。その会話を横から眺めてる観客にはより伝わりにくい。

だから、おれらレベルで気をつけることとして、クソリプ賛同者にならないよう気をつけること、すなわち、同意するときほど相手の示す射程をちゃんと把握するのも大事だろう。

被害妄想 という言葉は強烈なのであまり使いたくないが、プライドのバグと危惧、恐れによってものごとはゆがみやすくなっている。山月記でいう「臆病な自尊心と、尊大な羞恥心」まさにそれだ。時代を問わない。抗わねば。おまえも、チョット納得できるところがあったらチョットやってみないか。やめとくか。おれはおれでがんばりまーす。



追記)
なんかもっと手前の話で、単なるお祭り好きというか、「諍いはまあ、少ないほうがいいよね」とも特に思わない人のほうが人口としてボリュームがあるんじゃないかと思い始めてきた。「他人の血が見たいわ」とピュアに言えるタイプ。

もっと言えば、キーワードさえ目に留まればどうにかひっかけて、言いうることは全部言ってしまうタイプ。「言える/言えない」の後に「言うべき/言わないべき」のジャッジがないタイプもいる。「言ったら今得する/損する」くらいは勘定するかもだけど。

どちらもおれの好むところではないが、まあ、それはそれで成立した価値観だなと思う。「第三者のおれはその価値観を尊重して関与しない」べきか「それらを不義と考え非難のスタンスをしっかり持ち、別段隠すことなく過ごす」べきかは、どっちもありそう。腰を据えて考える必要があるな。

きょうの「おれたちが心がけるべきこと」の話からはちょっと逸れるので、今はおいておこう。

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