日記210724

追記。8/20にこの日記を読み返す。あれから約1ヶ月が経ち、下記する衰弱はかなり無くなった。その理由はなんと、「COVID-19、特にδ株への警戒意識が爆上がりした」から。迷いや誘惑、選択の幅があるゆえの後悔、それらをバチッと肚を決めることで断つと精神的には落ち着いてきた。

それが8/1ごろ。そこからまた悲惨な報道を数多く見て今日まで至る。たった1ヶ月でも表立ってヤバイと感じる件数は非常に増え、今は「この行動選択は、シンプルに己を守るため」と素直に確信できる。

7/24を見返すとやはり「本来ならもっと遊びようがあるんじゃ……」って認識が透けて見える。それでも堪えていたほうが良いのだろうという消極的選択への不満。ただ今も「クラブのこういうところが好きだ」ってくだりには完全同意だな。

この追記も1ヶ月後にはどう映るのか……


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なんで「クラブに行けない」たったそれだけで自分の精神はこんなに衰弱しちゃったのか考えてる

基本的には、四六時中、毎日、恐怖と共にある。恐怖を拭い去ることができれば、衰弱は止まるだろうと考えている。


まずそもそも、引き篭もり適性がない、独りでいるとすぐに鬱屈する。非建設的なエンタメで時間を埋めていると、鬱屈がより深まってしまう。建設的なことができている時は独りでもいいはずなのだが、能力が低いせいもあって鬱屈に勝てるところまでノるに至れない。

散歩に出て、あるいはサイクリングに出て、とくになにも発見せず、なにも購入せず家についた時、叫びたくなるほど恐ろしい気持ちになる。

結局いまは、睡眠と食事以外の時間の9割を仕事に使っている。まったく強制されていない!が、やることはいくらでもあるし、やらないといずれ人に迷惑がかかる、その恐怖心でずっと仕事をしている。自分の責任になるのがイヤというよりは、相手に迷惑をかけ嫌な気持ちにさせる可能性を考えるのが怖いのだ。

休日も、ただ休んでいると恐怖が強くなる。それは休めているとは言わない。結局休めないのであれば、仕事をしたほうが良い。前進している感じはさっぱり無いが……


独りでいないなら、建設性とかに関係なく鬱屈しない。なので、独りでいない方法を考える。

素敵で尊敬する友人がいるけど、どの相手にとっても自分が親しくないことを理解している。踏み込んだコミュニケーションを相手に課すことと攻撃・迷惑行為は連続していて、納得いくスレッショルドもないので、善人に対してそれはできない。

かりに相手が許しを表明してくれたとしても、ブレーキを踏まずにはいられないだろう。たとえば「俺は痛みが好きだから叩いていいぞ!」と言いながら鞭を渡してくる知人を容赦なくしばけるかというと普通はためらう、みたいなのに近い。

せめて「酒奢るからダルい話聞いてヨ!」みたく明確に報酬を用意できたら少し気楽だが、いまは飲みに行くこともできないわけだ。


なので、クラブのゆるくて浅いコミュニケーションの場にとても救われていた。お互いがなんとなく楽しんでいる状態であることが分かっていて、しゃべる長さが決まってるわけでもない。音楽がそもそも好きという相乗効果もあって、ちょっと依存っぽくなるくらいこの楽しみに救われていたと、失ってから気づくわけだ。

COVID-19とか差っ引いて、冷静に考えれば、生きがいみたいなものはもっと分散させろよとも思うが、もともと生きがいをマネジメントできるほど器用に生きられない破滅型であったともいえる。おれには努力が及ばなかった。それは自己責任と言えるし、しかしその難易度はまったく不公平に人それぞれである。


道を5つ考えた。
「①クラブへ行く」
「②軽いコミュニケーションの代替手段を探す」
「③深いコミュニケーションを取れるようになる」
「④他人を利用しない鬱屈の回避手段を探す」
「⑤諸々諦める」


①、おれは、マスクをして、入場時に手の消毒をすれば、「万全な感染対策」になっている、とは思えていない節がある。飲食を完全に禁止して、ボディタッチも禁止して、それを全員が守ってすら換気の限界として、リスクは有意に上がると考えている。

一方で、そのリスクの上がり幅とリターンとの適切な比較方法を検討できていない。単位の違うものを比べるときに、どんな物差しを自分の中に定義するのか。感情的にはリターンが勝ち、遊びに行きたい。ここまで衰弱した気持ちが回復するなら、おれにとってのリターンは誰かが想像するよりもきっと大きくて、その大切な利己において天秤を傾けうる。

しかし……利己のリターンのために差し出すリスクは、また別の知人友人たちを悲しませている。彼、彼女らの嘆きを、本心からの苦しさを、離れたところから眺めて、どうしてこんなことが続いてしまうんだろうと考え、暗い気持ちになっていると、元気を出すために遊びに出ようかな なんて考えは消え去っている。

隠さず言うと、今年に入ってから、2,3度はクラブに行った。その時間とても楽しい気持ちになった。上記のような根本的なことから目を逸らして楽しんでいたので、帰り道ではバッドトリップのようなツケが回る。イベントの最中に逃げ帰ることもあった。

せめてワクチンを打てたら心持ちも変わるんだろうか……(まだ1発目の予約すら取れていない)

そして、全員がおれのように恐れに支配されていたとしたら、クラブなんてどこもぶっつぶれている。最前で場を維持してくれている人々(意識的にでも、純粋に遊んでいるだけでも)の存在にとても感謝している。一切の皮肉はない。おれのできない、おれにとって喜ばしい結果に繋がることをやってくれている。貢献できていない自分は一体なんなのだろう。



②、ネットが代替にならないことは、そもそもインターネット・コミュニケーションがとても苦手であるために敏感に反応した(十数年とインターネットでできたコミュニティの恩恵を享受してきたが、適性はまったくないと感じてきていた)。

ネットと直接対面……とくにクラブのそれと比較して、ネットは「今ここに、いる/いない」という概念が溶けている。対して、現実では会うことがまずひとつ目のトピックとなり挨拶から入れ、とても口火を切りやすい。ネットはどうにも明白なきっかけを要求してくる。友人との会話に、情報や利益を求めているわけじゃない、内容なんてなんでもいいのに。

じゃあ、クラブとかではなく、他の方法で友人と集う……これも、未だリスク的な抵抗がある。いや、これも感情的に言えば大きな利己が暴れだしそうだが、て具体的に何をどう計画すれば自分の中に筋が通せるのか、見通しが立たずに鬱屈に流されていく。

こういった時に思うのは、家族が一人でも一緒に暮らしていたら、話し相手としてだけでもかなり心持ちは違っただろう。実家に帰る、なども移住でなければ結局自分は来訪者なのであり、リスクを持ち込むことになる。

そんな自分の命綱になっているのが、毎週1時間は会える恋人の存在で、唯一まともに喋っている相手だ。人に会うことへの態度が決まってないままでも、「そのくらい特別な関係性に限定するならば、数的に、無条件に自身を許して良いんじゃ」と考えている。そしてその大切な存在の感染源には絶対なってはならないので、やはり「他の方法で友人と集う」への抵抗が高まっていく。


③については、①や②が解決されるなら今からでもできるかもしれないし、その時点で目的は達成されている。裏返すと、②の解決なしに③を克服できる気が全然しない。


④、独りでいると今は仕事しか手につかない。恐怖に抗って創作とかをできるほどの元気がない。


こういった逡巡をずっと抱えて、⑤に至る。

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