ジャケット・ディスプレイ・人体のサイズ感の錯誤
「人間のサイズ感の認識がおれはバグってる」という投げっぱなしな雑文を書きます。
下ネタが若干含まれます。
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ジャケットを買うのがあんまり得意ではない。
アラサー男性でありながら、Tシャツでも出勤できてしまうサラリーマンである自分だが、スーツまで行かずともちょいとフォーマルな格好もできないといけない場面はある(言うて大してない)。備えが必要だ。
雑誌を見るとモデルがジャケットを着こなしている写真が並び、いいじゃんかっこいいじゃん、おれは肩幅は無いが背はあるし、モデルまでとは行かずともそれなりに着れるだろ、と服屋へ向かうも、いまいちピンと来ずに退店する。
まず"シルエット"というのがある。高級品は良く(志向の違いはあれど)、安価品に保証はないようだ。自分はファッションセンスに自信がなく、シルエットの概念を「好き/嫌い」ぐらいのレベルでは感じることはできるものの、「どこがどうなってるからシルエットが良い/悪い」分析的な解像度は低い。
お店で毎度ピンとこないのは、そのへんの経験値不足、または良い物を試せていないだけ、という結論もひとつ真実だろう。経験の高い店員などの意見を仰ぐと良い。しかしこれまた毎度思うのが、「人間って小さいな」「ジャケットって小さいな」である。この気持ちはなんだろう?
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夜空にまんまる大きな月が出ていて、おおこりゃ綺麗だ。写真におさめておこうとスマホをかざす。取れた写真を画面で見ると月がめっちゃ小さい。月がデカイ!という感動が全然伝わらない写真になっている。ズームがどうという話ではなくて、同じ視野角に対しての月のサイズの比率が小さく感じられる……みたいな経験、皆様にはないだろうか。
写真に詳しい人たちではこのへんすでに解答が出ているのかもしれないが、怠惰によりとくに調べずに推論を話します。教養の低さが出ますね。
人の目は視線中心にあるものは細かく、視野ぎりぎりにあるものはぼんやりと認識することで、ほどよい情報量ながら突然の危険にも対応しやすくなっている。注目しているところは精細に見えているので、存在感も大きく感じられる。
写真は撮った範囲に対してわりかし均一な情報分布である。その写真をまた人の目を通してみるわけだけど、写真見るときって数十cm〜数m離れているので、精細とぼんやりの差がそんなに出ない。なので存在感も強調されない。
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10代のころに初めて異性の裸体を前にした時、「人間って小さいな」と思った。着衣の異性や、性別問わず人間そのものはもちろん知っていたわけだし、裸がなにを左右しているのか? 個人のスタイルの話ではない。性的興奮で知覚がバグっていたということでもない。しかし慣れの話だなと後日感じた。
つまりそれまでは、異性の裸体をじっと見る機会というのはAVにしか、すなわちディスプレイの先にしかなかったことだ。AVは定点撮影っぽいものもあるが、基本的にはカメラワークがある。接写〜全身が入らないくらいの接近のカットで、時にはサイズ感が意図的に強調される。画角によって切り取られたシチュエーションがある程度記号化されて俯瞰される。
ディスプレイの中に自分の肉体という比較対象物は無い。男優ふくめフィクションであるため、比較しても自分のサイズ感とはつながらない。VRゴーグルはその断絶を超えていけるのかもしれないが……
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カメラ越しに見ていた人間のイメージに比べて、現実に見るそれが小さいという感覚。雑誌でみるジャケットの着用例に比べて、試着し姿見の前に立つ自分が「小さい。もっとがっしりとした存在感があるものかと」と感じる時にこれらのことを連想する。
しかし、それでいいんだよな。大事なのは、カメラ・マジックによるサイズ感の錯誤に育まれた好き/嫌いの感覚を過信すべきでない、自覚的であるべきということであり、慣れによって解決できるものだ。
下手に直感を過信すると、オーバーサイズのを買って後から後悔するかもしれない(録音した自分の声を聴いて、「え、客観的にはこんな声だったの!?」とがっかりするようなものだ)。「ジャケット、着てみるとピンと来ないんだよ」と思っているのは自分だけで客観的には問題なかったり、その姿を撮影してもらって見れば自分でも納得できるかもしれない。
そういった諸々込みでモノを評価できるようになる、のがセンスの一種なんではなかろうか。なにか違和感があった時に、こういった自分の感覚の錯誤に起因するのか、単に現実として商品シルエット等と自分の相性が悪いのか、他の服とのコーディネートや、はたまた試着室の照明の色とかが合ってないのか、サイズ感がおかしい!という直感がほんとうにサイズ感のせいなのか? それらを嗅ぎ分ける能力。
これはあらゆる、主観的評価をくだすときに考えることである。「とにかくなんかチガウ!」ここまではいい、直感の第一印象は大切にする。そこから解像度を上げようと能動的に調べたり試すことで、自分の錯誤に気づいたり、いやだったものが急によく見えたりする。評価がくつがえることがなくても、次のチョイスをする時の方角がつかめる。
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「人体のサイズ感の錯誤」というバグがおれには起きるんですよ、皆様には無いですか?というだけの話だったんだけど、話が逸れてきてるな。
ここまででいったん終わりにして、主観的評価を考えることについて蛇足を続ける。
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続き。自分内評価の話からがらっと話題を変えて、他者が交わるとどうか?ということを書いてみる。
否定的評価を自分の外へむかって発言する時に、それがどんくらいの解像度による発言なのかを意識/提示せず、聞き手が把握できないと「あーアンタはそう思うんだ、それぞれの価値観だよね」以上の意味を持ち始めてしまう。
上で書いたように、直感的な印象と、情報を備えたあとでは評価が食い違うことがある。まあ「よく調べると悪く感じる要素ないんだけど、総体でやっぱなんかヤダ〜」ということもあるし、どちらも正しいと大事にしたい。
しかし、なんかヤダ〜が「ハナから共感してもらう必要のない自分の印象だ!」としっかり自覚していたとしても、「情報を揃えた上で客観的に非難されるべきものの告発」だと誤読されることがある。
火がついて自分が困ることもあれば、その誤読した誰かを傷つけていることもある。それは誤読する奴だけの責任なのか?というと、深度の提示が粗雑かもよ?と気にかけるべきだと感じることがおれはある。
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議論するステージではないつもりの発言がつっかかられる……たとえばTwitterでしょうもないことがバズると、丁寧な提示なんてぜんぜん読まれねーだろう。ああいう大衆というオソロシイものはどうしようもないので、誤読に責任を感じる必要はあまりないと思う("防災"として学べることはあるだろうけど)。
だからといって、「あーおれコレ嫌いだわ〜マジ無いよね をどう捉えるかは聞き手次第」と全ケースでバッサリ線引きしてしまうのは、おれ個人は肯定しがたい。とくにメリットがない場合、表現方法によって他者が無為に傷つくのは回避する。100%の回避はあり得ないが少なくともそれを志向する。
うわあこれこそただのおれ個人の価値観にすぎねえなー これはだれかに強制なんてできないぞ。他者とのミクロめな世間関係において成果主義をアンチしたいという意味なんだけど、そのウェットさに何の意味がある?/別の弊害をもたらしかねないぞ、という反論がありうるな。
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ちなみに誤読には逆もある。
たとえば「これは社会的に良くないものではないだろうか? これだけの情報と理論と過去議論を踏まえると、撤回を考えていく姿勢が正しいのではないか?」という主張も、「直感的に気に入らないものに目くじら立ててるだけでしょう。それを自分の内側に留めることが出来ずに、社会的に追放しないと気が済まないなんて迷惑な奴だ。他人の価値観を矯正し踏みにじろうとするな。」という方向の誤読はかなりよく見る。
どのステージにいるのかの認識が揃っていないので、気に入らねーなという第一印象が生まれるのも当然だ。そこで今度は聞き手が解像度を能動的に上げる作業をすれば(発信側の責任が大きかったとしても)、すれ違いは解消できうる。
でも当然、何かをよく考えたり、調べるのはコストだ。誰がその面倒を引き受けるのか? 労働と少ない稼ぎに疲弊する社会人とかにそんな余裕ある予感はしない。だからこそみんなで少しずつ負担できたらメデタシメデタシですけどね。「やりたい人だけ自由にやる」だと、やる/やらないで思想的分断も起きやすい。面倒がった多数派の直感的な反発は、丁寧な解説なんかより当然キャッチーな煽りに靡く。
負担を極力避けるなら、少なくとも「こういう構造があるんだ」って認識が心の片隅にでもあれば、実際に調べずブラックボックスのままでも自制は効く気がする。
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も一個、誤読をミスリードとして印象操作に使うテクニックもある。さっきの例でいえば、ほんとに「気に入らないものに目くじら立ててるだけ」なのに理論武装して、解像度と客観性の高い議題に打ち立てるやりかただ。こうして大衆他者の先入観にアクセスする。その議題にもともと精通してないと見抜くのはむずい。一度この手合に引っ掛けられるとその後の読解にも悪影響が出る。
もっと悪いのは、発信者が悪意なくこれをやってる場合だ。もはや何が何やらという感じだけど、現実はかように複雑である…… 結局最初の話に戻り、印象とその後、自分の評価がどの深度にいるのか自覚しましょう、という筋くらいしか残ってない気がする。
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予告通り投げっぱなしな雑文になったな……
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