鳩時計・リアリティを編集する遊び・音MAD

日記と、ツイートの補足です。

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今日、以下のような3つのツイートをした。

1,2を連投した後に、3を補足のように投稿したのだが、総じて言葉選びを間違えたな……自分の感触を正確に言葉に落とし込んで伝えるのは難しい。


まず、1,2ついて。
鳩時計が「ソ・ミ・・・・・」や「・ソミ・」などのパターンを持ち、音楽と同期してこれをハメこむときに、ここから音程を少しずらしたりタイミングを変えると意表を突かれて面白い という話。

例えば拙作 辻林美穂『きみととく (Hercelot Remix)』 では「ファレ・・」のループが最後だけ「ファレラソ」になる。(2:33〜)

しずくだうみ『水色 (Hercelot Remix)』ではループが後半だけベンドダウンしていく。(2:54〜)

これらはDionysos『Le Réveil Des Coucous Vivants』などに影響されたもので、「サンプリングによるトイサウンドの挿入方法として、現実に則さないトリックとして、旋律を弾いてしまっても良いんだ」と固定観念を崩されて気持ちよかった。(0:51〜)
(この曲では鳩時計のメロディは大胆に多重化されているが、このアルバム(というかサントラ)においてこれより手前の曲では、通常の鳩時計が前振りとして何度も登場している。)

他には、tofubeats『ふめつのこころ (yuigot Remix)』の間奏でも「・ラ #ファ・ 」がすぐに「ラ・#ファ・」と形を変える。(1:28〜)

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鳩時計は「音程がはっきりしていて三度を強く意識させる(笛のシンプルな演奏で代替できるほど)し、ループ性もはっきりしている。楽器演奏性が高いにもかかわらず、ひとたび"鳩時計だ"と思えばこの音程とリズムのみを期待する」のが良い。
つまりそこから少しだけシフトしたときの違和感がデカい。

他にも、
・救急車(アタックがぬるくてリズムが弱い)
・学校のチャイム(メロディがやや冗長)
・インターホン(ループ性は低い)
・踏切(単音程のみ)
・目覚まし時計の電子アラート(同上)
など、鳩時計より適切さは劣るかもしれないが試してみる価値はありそうだ。

また、意味の方面から見てみると、鳩時計とは時刻を定期的に知らせる人工物で、用途目的から物理機構まで規則性と無機性に縛られた存在である。
そこに鳩というカタチや木のぬくもりなどのガワを実装してかりそめの有機性を与えているわけだが、音楽作品というフィクションの中でその縛りを打ち破るというのは、内面にも生命が芽生えるような明るいファンタジー観を見出すこともできちゃう。決まったループから抜け出して楽しい音楽に合わせて歌わせることができるわけだ。

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そんなようなことを思って書いたのが先のツイート1,2だ。

ここまで長ったらしい文を読んでくれたあなたが最初のツイートに戻れば、「へぇ、そう。」とある程度納得してくれることを期待するのだが、ツイートだけではそこまでグダグダ説明してはいない。

おれが投稿直後にツイートだけ読み返して思ったのは、
「こういうアプローチは、音MADなどで飽きるほど実践されてきたことではなかったか?」だ。

しかし、おれが表現したかったニュアンスとは違いがあり、このツイートではその差を表現できていない。

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物好きなあなたは既にご存知とは思うが軽く説明すると、音MADはニコニコ動画を中心に2006年ごろからあったムーブメントだ。
「ナンセンスな音声/動画素材を音楽に乗せて、その組み合わせと編集性が面白さの核になる」。90年代のナードコア、00年代前半のFLASH系のネタ、むろん後年もvine、twitterでバズるネタ動画や、TikTok、YouTubeにもmeme総まとめ動画なんてのは沢山あって、世界的にこぞってアホなネタを作るやつらがいて皆で楽しんでいる。掲示板カルチャーも見逃せない。洋楽popsでいえばサンクラ芸人と呼ばれるやつらもいる。

ただ06-08年くらいの音MADはそのネタの扱いの面で特筆できると思っている。ネタのソースがくだらないことが好評されるシーンがあり、エディットは痙攣的で、映像は大味なチョップで十分(の中でセンスを問う)で、笑いがコンテクストに大して依らない(特定のアニメネタ予備知識が必須ではない等)。
もちろん、09年以降がクソなんてことは全くないが、インターネット人口自体の広がりで多数派が変容していったのは当時感じた。その裏にアングラ的に先鋭化した人々のシーンがきっとあったし、そもそも06-08も全てが同じ土俵だったわけではないし、そして今もあるだろうと思うが、おれは早々にdigをやめてしまったので語る権利はない。
(掘ってないなりにモーニングレスキューはあの破滅性の裏で本当に凄いことをやってるのではないか、と思わされることが度々ある。クラシカルなものの凄さとは種類が違うが……)

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かなり脱線した。

さて鳩時計の良さは先述したとおりだが、初期タイプの音MADの良さはよりラディカルだ。
何の素材でも音程のつけようがあるし(とはいえ素材の個性が無効化されるわけでもない)、「素材によるリズムや旋律が一番の主役になる、一番しょうもないものなのに」という価値の転倒がまた面白い。映像編集によってラディカルな破壊力も加速する。
鳩時計が違和感を発生させることでささやかな装飾を施していたのとは"役者が違う"感じがある。

ただその妙味みたいなものを、今日の投稿でおれは「必ず笑える」と表現した。愉快なのでそれは本心なのだが、一般的に言う「笑える」の言葉が備える土俵は、この志向性の違いを踏み越えてしまう。
「どんなものでも笑いと楽しみのコンテンツに換えられる」という意味だけでとれば音MADの方がずっと得意にしていたことだよな……と思ったので、3のツイートを追加したのだった。

しかしそれもめちゃめちゃに言葉足らずだった。高速主旋律はひとつの特徴たりうるが、その外側にも音MADは存在するし、やはり根本的な違いは用途役割の部分なのだ。
そして両者が全くクロスしていないか?といえば、技術的なアプローチで共通する点もあるのでややこしい。どちらも「意外性を突く演出が面白さを引き立てる」ベーシックな笑いの構造ではあるからだ。

ミスって単に「音MADに一家言ある人」みたいな空気を出してしまった。先述したとおりおれは10年以上前にdigをやめているので一家言もクソもない。しかし単純に作家を尊敬しているのは変わらない。

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……という話は前段だ。「どんな動機がおれにここまでの話を書かせたのか?」という話が先へ続く。
一歩抽象化して、Webになにかを投稿するときのハードル、動機、何を恐れ人は先走る、「すべてはリアクションである」、そういう考えをメモって行きたいと思っていたのだが流石に時間をドブに捨てすぎるので後日に回す。

Kindleで「ネットは社会を分断しない」を買ってみて最近読み始めたのでその後にしようかな、とも思ったんだけど序盤で出てきた政情の説明にけっこうバイアスかかってるなと感じて少し手が止まってきた。この段落日記っぽいですね。

投げ銭いただけたら、執筆頻度が上がるかもしれません