日記220118 (恐怖と健康の話)

日中は外が怖く、夜間は内が怖い。

単に生活リズムだけの話なのか知らんが、日中になんとか起き上がって歩くと、自分がそこに存在している感覚が希薄だ。計算はなんとかできる。投げかけられた入力Aに対して関数Bを通して出力Cを返す。ギリギリなんとかできることと、そうでないものがある。ただの計算でなく深慮しなければいけない、とくに他人=外を伺わなければいけないことについて手が鈍る。これは単に関数の用意が悪い、経験未熟と言うこともできる。機械的に対応できない溢れた部分とを眼差そうとするとぼやける。異形のなんかの概念。「しょうたいがつかめない」。

昼、外の空気を吸いに出る。歩いている自分の靴底からの反発が部分的にしか自分の脳に届いてない気がする。自我が存在することってどういうことだったっけ?とぼやける。異形は己でもある。まあなんか、外部からの知覚、外部のあらゆる存在や概念からのフィードバックが正しく己へ通っていないんだと思う。鼻詰まりみたいなもんかな。己の外側に恐怖を感じる。

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日が暮れて暫く経つと存在がはっきりしてくる。単に睡眠からの覚醒度合いの話なんだろうか。己がここに存在しているという概念に「まあ、そうだろう」という気持ちになってくる。これは理屈ではない。ないので、(書いている現在=夜間である)今の気持ちを日中に適用し解釈することはできない。輪郭があるので、外側への恐怖(つねに存在する)へ立ち向かうだけの気合いや覚悟や作戦を携えることができて、どうにかできることがある。

気合いの必要な諸々をなんとかこなし、就寝する。思考のみが喚き散らかす時間が始まる。日中には蒙昧であるため遠ざかっていた根源的恐怖についてのお題目が次々と立ち上がり内側で喋り始める。自我・思索・知覚・感情の不安定さを日々実感しながら、それが完全に喪失される"あと"のこと、つまり死なんだけど……内声をかき消すためにまずは布を口に当てて叫ぶ。そんな気力はすぐにしぼむのでスマホから音を出す。音楽ではいけない、音楽には意味がなくて味があるから、大事なので、己を潰してくれるものではない。YouTubeなりPodcastなりで適当に人が喋っているものが良い、言葉には意味があって(これは己にとって)無味だから、少価値なので、脳のスペースを満たし己の領域を潰してくれる雑音となる。それでなんとか入眠が果たされる。己の内側に恐怖を感じる。

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