日記 〜240318 (オムニバス)

 Twitterで書きはじめたけど半端に長文乙って感じになった諸々をこっちに貼る。5本立て。

 今日、または今月考えていたことの記録ってだけで、意義とか無い。

 SNSに流れる「今日Aを食べておいしかったぁ」も「こういう理由で事件Bを問題視すべきだと思います」も種別の違いがあるとは到底思えないんだよなあ。
 読む側が個々人において気に入る/ウザいの尺度を持つにせよ、分類によって書く側の在り方を問える話には感じられない。
 感じたこと〜考えたことのグラデのどこかにボーダーを設けて他人の言動に踏み入るとしたら、その設定の一般妥当性を説く責任が生じると思う。

 おれが人一倍鈍感で「最近TL見てると不快になる」にまったく共感できないせいな気がしてきた。
 10年単位でのTLのムードの変容は認識できるし、運営システムへの不満も理解できるけど、個人の発信が雑多に存在するTLは単一のコンテンツではないのだから、集合全体に感情的な苦言を呈する態度にあまり共感できない。

 もう少し噛み砕くと、「こういうの言ってるやつウゼーな」「そういうやつ最近多いよな」までは妥当というか個人の自由なんだが、ここでTLという他人の発信総体に対して「この、"最近多い"環境・状態がウゼー」と言うのは殴りしろが広く、邪悪だ。素直な気持ちの発露にすぎないとは思うが、雑で無用に攻撃的になる。

 「集合の醸すムードが参加者に与える何らかのプレッシャー。これが不自由を生み、適正のある人ばかり居やすくなり、偏りを加速させているよね。だからムード、ひいては集合全体のあり方が非難対象になる」までいけば納得でき、議論可能な問題として扱える感じが出てくる。(ならばそのお前の苦言やぼやきこそ自身の非難対象にはならないのか?という問いも発生してくるとは思う。)

AとBは程度の差こそあれ構造的には同じだとしたら、常に同じ論理で処理できる
↑いや、程度問題はまさに程度の差こそが肝要なこともあり、同一視は早計
↑そうだが、程度の差を以てAとBを区別するなら、どうして/どこに線を引けるのか定義・説明する責任はあるね
↑なくね?
↑あるよ
↑ないよ
↑?

 「〇〇したら音がいい/悪い」系の話って、個人的には「根拠を仮定し、検証する姿勢を持っている」かが信用のボーダーラインになってる。

  1. 無根拠だと「ありがとうと声をかけた水はうまい」と同列に見える (だから嘘って意味ではないけどね)。信奉と印象操作合戦のステージになりそうだからやめたほうがいいと思っている。

  2. 根拠を推測しているが検証姿勢がないと、1よりマシだけど、予想だけ言いっぱなしにできて無責任ではある。むしろエセ科学的な信憑性が付随して、印象合戦に発展する可能性もある。なのでこれもまだ議論の俎上に乗りにくく、言わないほうが比較的良い。

  3. 根拠を推測し、検証しようとしている / 完全でなくとも途中までやっていると、個人的には安心できる。自らの推測を疑う姿勢が少なからず伴うだろうし、途中までの時点で世の中に開示したら他の詳しい人々と意見交換もできるかもしれない。

  4. 根拠を完全に検証できていると、一番スバラシイ。が、すごく大変。当人的には完全なつもりでも見落としがある場合、それはまた他人との意見交換でブラッシュアップできようものだから、それはそれで良い。もちろん望む結論のために恣意的に偏った条件で検証するやつはカスである。

 3,4がいいですね。まあ検証ってめんどいから誰でもやれることではないのだが…… ただの個人的な感想であっても結果的にオカルト・デマの流布になったら社会悪なのでふつうにやめたほうがいい。

 感覚的な領域と科学的な領域は両輪であって、感覚の見地からいえば、ありがとうと声をかけた水が有意にうまいことは全然ありえるだろと思う。徹夜と空腹でボロボロの時に聴いたハイレゾサウンドより、体調万全で聴いたMP3のほうが完全にいい音な日もあるよ。いや、ボロボロの時ほど音楽が救いのように響くかな……

 問題は、感覚的にいいと感じたことに科学的な理由をつける手付きについてで、「あのDAWはこのDAWより音が悪い」など条件を一般化して言及する時には、言い出しっぺに再現性と理屈を検証する責任が生じると思っている (あともちろん、良し悪しという一次元の尺度で説くなら定義は具体的に提示しないとね)。
 さもなくば、せめてそれが科学の領域で語りうる話なのかに自ら疑義を持ち表明してほしいなと思う。そしたらオカルトの流布でなくなるから。"世間"がより前進しやすくなる。

 「1,2の人が提唱する感覚的な主張が、第三者の検証によって科学的に否定される」場面もたまに見る。そして主張した方の人が「面倒事に絡まれた」という態度を取るところまでセットで。
 否定するのは1,2の体感面ではなく科学的な側面 (しかも検証条件によっては100%あらゆるシチュエーションの否定ではないかもだし) のみであり、それを切り分けられたとて体感そのものが減耗するわけではない。

 でもやっぱり感情的な反発……「おれの確かな体感が、公の場でオカルトに成り下がらされた」らふつう悔しい (世の中、科学的な誤りを感情から切り離して受け入れられる人ばかりではない。それは当人だけの問題ではなく、科学的に誤ることで"人としての"信用度を感情的にサゲて評価する周囲の目線がのさばっているせいでもある)。

 世の無用な軋轢を減らすためにおれらにできるのは「"気のせい"だってバカにできたものではない…… ていうかおれらの人生の知覚の大部分は"気のせい"にチューニングされているし、もっと敬意を払って良い」と考えていくことではないか。

 あと、発話者を信用できるできないと、科学的な事実は関係ないので、1,2の態度も結果的に真実とわかるシナリオは全然ある。話を聞く側の態度としては、内容を100%デマと思うのも間違いで、疑いをもって接するくらいが妥当なラインになる。

自分の価値観に基づき他人への感想を持つ
↑ほぼ誰しもやる

自分の価値観に基づき他人への非難を公言する
↑妥当性はさておきそれ自体は自由

自分の価値観で他人の感情を想像し決めつけたものに基づき非難を公言する
↑カスの侮辱

 XをTwitterと言って苦笑交じりに言い直すやつとか、他人に指摘するやつとか、名前が変わった直後にはギャグとして言えてたけど、今になっても真剣なトーンで他人を指摘するのがアリかよく考えてる。
 (個々の場面においては「各自好きにしな」「無用な喧嘩はよしな」で済むんだけど、あえて理屈で自分を納得させられるか試す。)

 時間が経とうが今現在XはXであり、Twitterというサービスは存在しない。ただしx .comは短縮URLとしてのみ存在して、ドメインはtwitter .comのままである。これを旧名で呼び続けることがどれだけ不適切だろうか。
 たとえばKanye WestがYeに改名してもYouTubeやFacebookのアカウントはKanyeのままである。そしてTwitterもKanyeも英語版Wikipediaでは旧名のままのURLだ (本文では冒頭から新名で説明される)。

 人や物を名前で呼ぶ時、われわれは略語やあだ名を使い許せているし、呼び方が必ず唯一である必要はない。ただ、略語やあだ名を使う裏には「正しい名称は唯一のコレだ」と暗黙の了解が通底している。
 しかしYeをカニエと呼ぶとき、「今はホントはYeだってわかっているけどね」と全員が了解しているだろうか。XをTwitterと呼ぶとき、「今はホントはXだったか!つい忘れてたよ」って人がたくさんいたころはツッコミが成立していたが、今はどうだろう。

 ところでこういう話で連想するのは固有名詞における表記ゆれについてだ。
 スペルミスはともかく、おれはHercelotをhercelotやHERCELOTと表記されてもべつによい。だが提出した曲名のcapitalizationをApple Musicにいじられるのは結構嫌だ。
 スペース挿入はスペルミスと同等に感じていて、SoundcloudをSound Cloudにするのは、Face Bookと同じくらい違和感がある。

 昔、宮澤という友人の苗字を宮沢と書いて咎められたことがある。その時おれは異体字を可換だと思っていて (もっと昔に渡邉を渡辺と書いてもよいとする友人がいたため)、斉/斎/齋も、辺/邉/邊も、高/髙も、ときによって自由に選択可能なのかと勘違いしていた。

 固有名詞にはアイデンティティが宿る。その尊重は優先度が絶対的にそこそこ高いとおれは感じる。なのでまあ、現在の名乗りで呼んだり書いたりするのに越したことはないんだろうな。とはいえ人名とそれ以外ではまた重みも違いそうだし、まずはドメインやドキュメントからX内で統一してほしいもんだが……

投げ銭いただけたら、執筆頻度が上がるかもしれません