PSBのCARTOOOM!の感想

Plus-tech Squeeze Boxの2ndの発明と影響について書きなぐりつつ脱線していく文章です。読む価値はゼロ。アルバムを聞く価値は2兆。


〜2020.7.10追記〜

PSBがサブスクに来ました。1stと2nd。Vroom Soundリリースの他アーティスト盤と共に。いやー素晴らしいです。

2ndのCDは再発盤があって+3曲追加されてますが、サブスクはオリジナルリリース時点の曲数でした。

〜〜


 PSBの2ndをフェイバリットに挙げる人はおれ含めてすごく多いと思う。ポップで楽しくて遊園地みたいに愉快であり、徹底的な編集に裏付けされた完成度の高さに技術面でも誰もが唸る。2004年以降の音数過剰ポップの金字塔。十数年そこら経ったところで価値が薄れるものではないでしょう。
 1stも素晴らしいのだが、とりあえず今日は2ndのことだけに特化してみる。


「おもちゃ箱をひっくり返したような〜」

(さっそく脱線。)
 いつからあるのか知らないが、「おもちゃ箱をひっくり返したような〜」って表現のテキトーさはひどいもんだ。おもちゃ箱と工具箱とクローゼットとジュエリーボックスの区別もついてないくせにそんなこと言うなよな。どうひっくり返すのかや、ひっくり返すと周囲に何が起こるのかとか、気にすべき着眼点は多いのに皆興味のない様子で、雑〜に使われがちな表現だ。

 もちろん、このクリシェで評された作品がダメって話じゃなくて、評し方が雑ってことだ。宣伝文句は精度よりもリーチが大事って気持ちもわかる。

 しかしそこへいくと、このアルバムを「おもちゃ箱をひっくり返したような〜」と表現するのは比較的適切と感じる。


PSBマナーが「カートゥーン」形容詞をジャックしていた

 閑話休題して…… これは作り手側をも刺激した作品だろう。感動したものを真似したくなるのは自然なことだ。その結果、おれは「ああ、この人はPSBが好きなのね」という曲にいくつ出会ったかわからない。(ちなみにおれは真似したくても技術が足りなくて挫折した。)

 とくに〜2017年くらいあたりの国内アマチュアのシーンで、「カートゥーン」「トイ」という形容が使われる時は、かなりの割合で「PSB的アレンジの表面を踏襲した歌もの(以下、PSBマナーと言う)」だったようにおれには感じられていた。
 おれは「KlimpereiとかPascal Comeladeみたいなトイミュージックやってる人いないかな〜」と検索しては、あれもこれもPSBマナーじゃん!と言ってみたり、しかもそれらはScott Bradleyの技法がどうとか、アニメーション用音楽の情報量を音楽だけで表現しようとか、オリジナルカートゥーンの構造を志向した評やテーマでもなかった。

 勿論それらはまったく悪いことではない、良い!(そもそも、おれが良し悪しを断じる話じゃあない)

 ともかくおれが言いたいのは…… 「カートゥーン」「トイ」といった一般語修飾を、PSBがジャックしていた時期があったのよ。PSBの発明したスタイルがことばを上書きして、直接的な影響が次世代に出ていたのではないか!と。このnoteはこれが言えたらおしまいです。

 もちろん「俺はPSBの影響は受けてねえよ」って作家もいるだろうけど、そのカートゥーンというコモンイメージって、PSBフォロワー達が醸成してきた土壌なんじゃない?っていうくらいアレンジのスタイルに通底を感じるんだよね……
 肌感覚なので根拠をデータで示すことができなくてごめんだけど、ディズニーランドのトゥーンタウンに行ったり、カートゥーンネットワークを見ているだけではそうはならんだろ、っていう。
 おれの解釈は「最初のフォロワー達はPSBを参照していて、輪が広がるに従って輪自体を参照するようになり、また独自の解釈やセンスを加える人がいて……とやっているうちに、カートゥーンのアレンジつったらアレねってイメージが固まった」。

(この話は、PSBの2ndだけでなく音ゲー "pop'n music"の全体的なムードが齎した影響も大きかったと思われる。過去シリーズでPSBの"BABY P"も収録されていた。"Dough-Nuts Town's Map"のAlt versionと言っていい曲だよね。)


(それらを聴いてたおれの感想)

 ほんとに何様?という話だけど、当時のいちリスナーとしては正直、まねっこの再生産ばっかり出てくるよ〜と思うこともあった…… しかし仮にただの再生産だったとしても、PSBの3rdアルバムが出ないゆえの、飢えに対する正しい供給ともいえる。

(おれは「PSBのあの路線は2ndで完成している。行き着くとこまで行っているし、あれを聴き続ければいい。3rdがもし来るとしたら違う路線でも全然いいよな」と思っていたファン。)

 ちなみに勝手ながら推すと、つぶされBOZZ氏はオリジナルカートゥーンのバイブスをめちゃめちゃ汲みつつ、PSBマナーの良い所と現在的な電子音楽ジャンルの良い所を強固に組み上げてて素晴らしすぎるんでおすすめです。色んなアプローチのできるアーティストでもありますが。


音数過剰ポップ編曲のチェックポイント

 音数過剰ポップ好き目線で巷の曲を聞いて「これはちょっと嫌いだな」と感じるポイントがある。(おれが「PSBを真似しようとしたけど挫折した」点といってもよい。)

・縦方向に要素を詰め込んで、ミックスがだぶついている
(処理が曖昧で音が渾然一体としすぎると、せっかくの要素過多が半端に混ざってしまい、詰め込んだ甲斐が薄れる)

・横方向に要素を詰め込んで、スピード感が死んでいる
(えてして8ビートより16ビートのほうが速度感は下がりがち……的な話のもっと複雑なバージョンが起きうる)

・鳴りのバラつきをコントロールできていない
(さまざまな素材を調達してくると、それぞれバラバラな鳴り・空気感を調整しなくてはいけない。均一にまとめすぎてもだめだけど、未処理なだけのバラバラと調整して計算されたバラつきでは雲泥の差が出る)

・過剰ポップをやりながら、シンプルでキャッチーにするための手法をそのまま導入していて、技法選択が噛み合っていない
(シンプルな歌モノ等は、主役を輝かすように周囲がどう気を配るかが大事になりがち。その考え方で行くと"音数過剰"なんて本来邪魔なだけ。この衝突を解決・解釈する気がないと、ただの過剰編集力自慢になっていたりする)

 で、PSBはこれらを華麗にクリアしていると感じるから好きだ。
 ついでに、休止前の電気グルーヴ("イルボン2000"とかライブセットのエディットあたり)もそうだと思う。


何のために音数過剰ポップをやるのか?

 とくにキャッチーさとのアンチシナジーの問題は大事で、つまり何のために音数過剰ポップをやるのか? 情報量が過剰になると何が起きて、それにどうタッチしていくのか?という話になっていく。
 正解は各々にあるだろう。"音数過剰ポップ"と一口に言ったって、PSBマナーに則る必要は無いわけだし。

 このあたり、おれがいち制作者としてずっと妄想してたことを、かの有名な4万字インタビュー『PSBハヤシベトモノリ氏による全曲解説』はかなり言語化されていて初読時に驚いた覚えがある。
 幸いにもInternet Archivesでまだ読むことができる(画像は切れてるけど)。PSBが少しでも好きな未読の方はすぐ読んで。こんなnote読んでる場合じゃないよ!

 とくにカルナバルシンドロームのくだりは、「具体性の断片をせっせとつぎ込むことでたどりつくのが抽象的な滲みである」というのにとても共感した。世のシンプルなポップスが「歌詞から具体性をうまく除き抽象性を高めることで、聞き手おのおのの耳に入ったあとで具体性を獲得し普遍的かつ身近なストーリーになる」みたいな話のちょうど逆じゃなかろうか。


偽の音、内面否定

 ……本筋に関係ないんだけど思いついたので書いておく。1st『FAKEVOX』(2000)と、capsule (中田ヤスタカ)の3rd『Phony Phonic』(2003) って、『偽-音』みたいな名付け方がほぼほぼ同じに見える。(Voxは一般語ではなくアンプメーカーの方から取ってると明言されてるけど。)

 4万字インタビューでハヤシベ氏はFAKEVOXのタイトルについて、

——でもこれ、ファーストアルバムで、単独で初めての音源じゃないですか。世の中に出て行くときの一発目で、FAKE、まがい物であるって宣言するのは……どういう意図なんだろう、と考えてたんですけど。

そもそも、本物って意識で作ってないですからねー。例えばジャズっぽい曲をやるにしても、本物じゃなくて、あくまで「っぽい」でしょ? その「っぽい」が良いわけじゃないですか。「っぽい」ほうが気持良い、楽しいっていう。

——あー!

それこそがまさに渋谷系の基本精神だと思うんだけど。

——気がつかなかった。

気がついてくださいよ(笑)。 そういう、ゆるい姿勢で自己否定する部分が、やっぱり楽しいわけじゃないですか。ねえ? ……楽しいタイトルだと思いますよ。

 という言及があり、FAKEという単語が創作の基本姿勢から自然と浮かんでいそうなことがうかがえる。ヤスタカ氏がPhonyとつけたのも同じ空気感を共有してたのかなあ……など想像してしまう。

 たとえば、誰しも打ち込みで生楽器パートをつくる面倒な作業中は「結局ニセモノじゃん……いやいや、これはこれで良いのだ」という葛藤がよぎるだろう。自虐的にゆるい自己否定を経由することで自己肯定にたどり着けるのかもしれない。

 ついでにオレバナをすると、おれの1st Album『Wakeup Fakepop』でFakeを掲げた時の気持ちも似ていた。
 Popということばは「Popular, 大衆に伝わり支持される内面」「Popping, 元気でファニーな表面」の両方を指しうる。この2つは兼ねやすい。ファニーで浅いと広がりやすく、シリアスは人を選ぶ。
 自分は「パッと見はにぎやかだしpopかもね、でも内面はpopularじゃないから化けの皮はすぐ剥がれるよ」という意味でFakepopと名づけた。これも自己否定といえる。

 いま、内面-表面という2要素で表してみたが、"音数過剰ポップ"のうまくできたやつというのは、「ファニーな表面」「ポピュラーな内面」というポップの条件を満たした上で、「マニアックな実装」を施されている。
 ナードなやりこみをしつつも大衆的キャッチーさを失わない、よくばりで高難度な趣向だ。単に歌モノにする(と過剰要素から必然性がなくなる)というアンバランスなことではない。それがうまいと……やっぱいいよねえ。


うまく着地できた?気がするのでおわり


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