日記220731(ホームの話)

 (やむなく、あるいはやむなくもなく)外出し、自宅へ帰る時に、経路検索のためにスマホでGoogle Mapsを開いて「🏠Home」のボタンを押す。私は宗教上の理由でスマホの言語設定が英語なためだ。日本語ならたしか「🏠自宅」と出る。

 このホームという響きに、むやみに特別なものを感じてしまう。つまり、Home = 自宅……を越えた、情緒的なニュアンスがあって、そして今から帰る・移動先の場所をホームと呼ぶことに違和感を覚える。

 自宅では、寝起きし、私財を置いて、生活をする。仕事もする。
 1週間は24/7で168時間あるが(スラッシュなのに掛け算なのおもろいね)、伝染病もある昨今、外にいるのが週平均5時間程度としたら、人生の97%を自宅で過ごしていることになる。

 それだけ、いまの生命そのものが依存しきっている場所ですら、情緒的にホームと呼ぶことに抵抗がある。機能的には依存しているが、アイデンティティを感じられてはいない、って言えばいいのかな。


 そして今、ホームと感じられる場所は果たして無いかもしれない。
 私は地元が都内だが、生まれ育った町・実家にも「ホーム」のニュアンスを感じることができない。地元も実家も、嫌う気持ちはほぼ一切なく良好なものだが、帰るべき場所・ベース・起点として安心感を伴うことがない。

 前に公開していた日記でも同じようなことを言っていたみたいだ。大学生の頃の気持ちの回顧。

自分が生まれ過ごした町の地図を見て、入ったことのある店にマークをつけて、通ったことのある全ての路地の風景を思い浮かべてみた。なんとなくホームだと思っていた町は、よくよく見ればスカスカの、自分になんの感情も興さない、つめたい情報だった。
入ったことのない店それぞれに、話したことのない人それぞれの生活があるとはわかっていたが、そいつは(俺は)よそものだと思った。

じゃあ学校へ行けばどうだ? その周辺には何がある? 途中下車したことのある駅は? たまにあのへん散歩するよな。範囲を拡大しても感覚は同じだった。自分の行動範囲は斯くも狭い。TV番組、ウェブページ、SNS、同じところを巡回する。

 どこもホームではない。ふわふわしていておちつかない。「最後にセーブしたのいつだっけ」と思いながらプレイを続けているようなそわそわ。
 ホームに縛られないのは自由とも言えるが……生活を、努力を、計画をつみあげていく時に、土台はしっかりしていればしているほどいいなって思う。

 これはさみしさの一形態に過ぎないんだと思う。安心できる大きな概念に縋ることで、前進する勇気を貰えるような。縋れなくてもいい、支えられなくてもいい、なんか、ちょっとなら寄りかかってもいいんだって思うだけ思えるような対象がほしい。それはパートナーだったり、家族だったり、このようにホームだったりする。

 こういうところをつつくと信者ビジネスとかうまく回るんだと思う。


 ホームって感覚はどのように手に入るのかな?

 故郷から別の土地におおきく生活拠点を移した人なら、そのコントラストの強さで故郷にホームを感じるのだろうか? 移住先を「ここは、おれの居場所ではない」と強く思うほど、相対的に故郷を内面化できるのかな。

 でも私も「ここは、おれの居場所ではない」とつねに思い続けていて、いや正確には「どこも、おれの居場所ではない」かもしれない。でもたとえばいきなり海外に住んだら、主に言語の面で「日本はホームだ」って感じそうな予感はある。

 一方、私の好きなミュージシャンのAtomTMは、「世界中どこに行ってもどこにも馴染まない」エイリアニズムを抱えていて、その想いは創作にも顕れている、らしい。どこからも離れた場所に行こうとドイツからチリに移住したって、ホームはみつからない。
 外国人という意味のエイリアン。世界のどこからも外国人であれば、宇宙人という意味のエイリアンでもあることになる。


 別の切り口を考えよう。賃貸だとホームという感じがしないんじゃないか? 自宅と言えど、所有物であれば(主にローンが)自分を場所に縛り付ける印象があるし、借り物 = 仮の物 って感覚もある。一方で所有物だって転売可能性をふだんから視野にいれていたらどうなんだろう?

 あるいは家族がいるかどうか、ってのも大きいんじゃないか? 仕事から帰る先に「うちのひと」がいること。逆から見れば、「うちのひと」を「おかえり」と迎えること。
 (家族だってそれぞれが独立した人間であり、同一化はできないが)、ときには寄りかかってもいいような信頼、共同生活が半永久的に続くだろう信頼があって、そういう、人対人の関係性にリンクする・乗っ取る・則る形で、人対🏠の信頼関係、つまりホーム感も醸成されるんじゃないかなあ。

 内装をデコレーションすることで愛着を持つ、って側面では意外とホームを感じないかも。自分の好みと生活にフィットするように、手足の延長のように家具・家電をレイアウトするのにはかなり力を掛けてきたし、アイデンティティは染み出している気がするのに、それを以て🏠がホームかというと……?
 なぜだろう。別の🏠に越しても「この部屋をどう自分にフィットさせようか」考える余地があるというか、またビルドできる。支配下にありすぎるというのも少し違うのかも。


 うーん、まあ、いずれかが正解だったとして、私はこれを獲得できるだろうか?

 私は安寧のためにセーブをしたい。セーブ警察で脳内チャット欄が荒れているよ。吉良吉影は静かに暮らしたい。正体を隠していてはホームの実感は得られない。エイリアンは🏠から🏠へさまよう。

 でも、ほんとうに別の星から来たのかもしれない。この世はあくまで旅行先。ひとりで訪れて、適当に観光して、いくつかの好ましい出会いがありつつも、去るときはまたひとり。
 ホームってのはあっちの世のことで、先に帰ってたみんなが待ってて「おかえり」って言ってくれるのかもしれないね。






 そんなわけで引っ越しがしたい。どうせここはホームじゃない。まだ観光は続く。
 とはいえバックパッカー的な旅行よりは、計画立てて宿を予約してく方が性にはあっているので、良い宿を探している。

 今の🏠に不満がそうない。手頃な賃貸ではあるが、仕事場とベッドは離れ、どちらにも採光があって風も通る。朝日で目覚め、夕方には変な形の雲と光を眺める。そう、空がとても広くて……丘の上かつ最上階でベランダも突き出しているので、外を見ると8割の空と2割の街が視野におさまる。前に住んでいた家より、実家より、そこが強烈に気に入っている。
 不満は「ちょっと手狭になってきた」「最上階なのに虫は出る」「ベランダ広いのに風強すぎてガーデニングできない」「風呂は綺麗じゃない」「防音やりたいかも」「ペット不可」ぐらいかな……

 それで、次の🏠を探す時に、その🏠自体の絶対的魅力をもとめていくのとは別に、いかにこの「気に入り」をキープし「不満」を減らすかの比較的な打算を考えてしまいそうなのだ。この「気に入り」は今の🏠固有の魅力であって、家賃を上げれば「不満」だけが減るってわけじゃない。完全上位互換を金で得るような話じゃないとわかってはいるのだが……
 こういう考え方だからフットワーク重いんだよね。余計な執着かもしれない。でも、今手元にあるものの魅力を積極的に見出し愛でる能力が高いってことの裏返しだとも思ってる。

 ホーム・フィットは経験やトライアンドエラーでしか見つけられない予感もあるので、やっぱりフットワーク上げる他ない。香山哲『心のクウェート』を読み返そうっと。


転校生 - 家賃を払って (Hercelot Remix) (2012)


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